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リクエスト
講演・発表














日付:2018年1月1日
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【第153回東京ぶらり日記:パンダ香香公開と上野周辺】
上野動物園の赤ちゃんパンダ、シャンシャン(香香)が12月19日から公開されました。6月の誕生から6カ月。母親のシンシン(真真)の乳を飲んでは遊び、ぐっすり眠る姿に人気は過熱する一方です。上野の街もこの盛り上がりに賛同し、市街各地でイベントが行われています。そこで今回はアメヤ横丁と御徒町駅周辺、上野動物園前をやじうま的にレポートしてみました。詳細はネット上のいろいろなサイトからアップされていますので一度ご覧ください。まあひとこと言って、「シャンシャン(香香)の姿は、何やっても可愛い」でした。












日付:2017年1月1日
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【第152回東京ぶらり日記:靖国神社(やすくにじんじゃ)】靖国神社の起源は明治2年(1869)6月29日に建てられた東京招魂社に遡りますが、当時の日本は、近代的統一国家として大きく生まれ変わろうとする歴史的大変革(明治維新)の過程にありました。それ以前、日本は徳川幕府の政権下にあり、約250年にわたって鎖国政策をとり海外との交流を厳しく制限していました。ところが、アメリカや西欧諸国のアジア進出に伴って日本に対する開国要求が強まると、開国派と鎖国派の対立が激化し、日本の国内は大きな混乱に陥ります。そうした危機的状況を乗り切る力を失った徳川幕府は、ついに政権を天皇に返上し、日本は新たに天皇を中心とする近代的な国づくりに向けて歩み出すこととなったのです。 しかし、そうした大変革は、一方において国内に避けることのできない不幸な戦い(戊辰戦争)を生み、近代国家建設のために尽力した多くの同士の尊い命が失われる結果となりました。そこで明治天皇は明治2年6月、国家のために一命を捧げられたこれらの人々の名を後世に伝え、その御霊を慰めるために、東京九段のこの地に「招魂社」を創建したのです。この招魂社が今日の靖国神社の前身で、明治12年(1879)6月4日には社号が「靖国神社」と改められ別格官幣社に列せられました。 境内にはソメイヨシノの観測原木があり、桜の名所/花見の名所として有名であるとともに、秋はイチョウ並木の名所として多くの人が訪れます。












日付:2016年1月1日
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【第151回東京ぶらり日記:築土神社(つくどじんじゃ)】築土神社は、東京都千代田区九段にある神社である。通称、築土明神。創建時の祭神・平将門に因み、武勇長久の神社として親しまれ、千代田区北の丸公園にある日本武道館の氏神でもあります。 毎年正月に授与される勝守(かちまもり)は有名です。現在の祭神は天津彦火邇々杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)を主祭神とし、平将門、菅原道真を配祀しています。江戸時代の文献によると、この社内には平将門の首(頭蓋骨や髪の毛)そのものが安置されていたといわれ、数ある将門ゆかりの社寺の中で、将門信仰の象徴的神社となっていました。明治に教部省の指示により将門は相殿に格下げされ、現在は天津彦火邇々杵尊がこの神社の主祭神となっています。戦災で神社が焼失するまで、将門の首を納めたという首桶、将門の肖像画(束帯姿)、木造の束帯坐像等が社宝として伝わっていました。昭和20年4月、戦災により社殿とともにそれらは焼失し、現在は一部の写真が残るのみとなっています。拝殿の装飾や絵馬などには、巴紋のほか平将門に因んだ繋ぎ馬(つなぎうま)の紋が使用されています。これは神社境内にある天水桶(文政元年)の彫刻を模したもので、築土神社の登録商標です。●天慶3年(940年)6月、江戸の津久戸村(現:千代田区大手町付近)に平将門の首を祀り、「津久戸明神」として創建された。室町時代に太田道灌により田安郷(現:千代田区九段坂上)へ移転させられて以降は「田安明神」とも呼ばれ、日枝神社、神田明神とともに江戸三社の一つにも数えられることもあった(江戸三社のうち、日枝神社、神田明神以外は固定していない)。元和2年(1616年)に江戸城外堀の拡張により筑土八幡神社隣地(現:新宿区筑土八幡町)へ移転し、「築土明神」と呼ばれた。明治7年(1874年)天津彦火邇々杵尊を主祭神として「築土神社」へ改称する。第二次世界大戦の戦災による焼失(1945年)まで300年以上の間、筑土八幡神社と並んで鎮座していたが、戦後、現在地へ移転した。平成18年築土祭では、安政6年(1859)の神田明神以来、実に147年振りに神輿渡御行列の江戸城入りを果たしている。9月15日の例大祭に至る一週間の行事を「築土祭」と呼び、節目の年には神輿渡御などが行われる。












日付:2015年4月1日
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【第150回東京ぶらり日記:松陰神社(しょういんじんじゃ)】松陰神社は、江戸時代末(幕末)の思想家・教育者である吉田松陰を祭神とする神社で、松陰の墓所がある東京都世田谷区と、松陰の生誕地である山口県萩市にある。どちらも、学問の神として崇敬を受けている。松陰神社は、明治15年に長州藩士吉田松陰の旧藩士門弟(伊藤博文、山縣有朋、井上馨、乃木希典、等)らが中心となって、吉田松陰の墓のあった当地(旧同藩主毛利大膳大夫の抱屋敷)に堂を建てて創建し、昭和の初め社殿は大修理され、府社に昇格した。吉田松陰は通称寅次郎、名は矩方、字は義郷、松陰または二十一回猛士と号し、毛利藩士杉百合之助の2男として天保1年(1830)8月4日萩城下松本村に生まれ、幼にして叔父吉田大助の養子となり吉田の姓を名乗ったが、養父死亡後は生家の援助で成人した。幼時より俊敏気鋭、11才で藩校明倫館の師範となり藩侯の御前講義をおこなったという、一事をもってしてもいかに、英才であったかが想像されよう。15・6才頃「世界地図」、「神輿図式」などを得て彼の世界的な視野が開け日本の地理的な環境を頭に描き、その思想を豊かにしていき、20才以後は各地を旅行し、いわゆる天下の志士や知名の学者と交遊し、その志士的活動に突入していった。ことに佐久間象山の影響は著しく、彼の一生の思想と行動に決定的な方向を与えたといわれている。安政1年(1854)米艦による腐外潜航に失敗した後、安政3年(1856)7月から安政5年(1858)12月まで松下村塾において子弟の教育に当たったが、この間、彼の人格的、思想的影響は年少の門弟に大きな感化を与え、明治維新の原動力となったことは人の知るところである。安政の大獄は彼の如き影響力の大きな人材を見逃がすはずはなく、安政6年(1859)10月27日伝馬町の獄舎で遂に打首となり、越えて文久3年(1863)正月彼の遺体は門弟高杉晋作などによって頼三樹三郎、来原良蔵などと共に、現在の地に移葬された。明治15年には、彼の旧藩士門弟らが中心となって墓の東側にささやかな堂を建て、降って明治41年木戸、伊藤、山県、桂、乃木などの門弟たちが、松陰50年祭を営み、石の鳥居と石燈籠26基を寄進し、その燈籠には伊藤博文、木戸孝正、山縣有朋、桂太郎、乃木希典、井上馨、青木周蔵などの名前が刻まれている。昭和の初め社殿は大修理され、南面に改められ府社に昇格した。昭和17年には、松下村塾の模型が境内に建てられ、大いに忠君愛国の思想を鼓吹して当時の風潮に投じたが、終戦後は一般神社のたどったと同じ運命に陥り、保存維持に関係者を悩ましているが、昭和33年10月には180年祭がおこなわれた。尚、近くに陸軍大将桂太郎と明治の元勲廣沢真臣の基がある。(せたがや社寺と史跡より)












日付:2015年1月1日
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●このコーナーを7ヶ月間お休みさせていただき、ファンの皆様にはご心配をかけまして申しわけございませんでした。しばらくの間、不定期掲載になりますがよろしくお願いします。<編者より>             【第149回東京ぶらり日記:代々木八幡宮 出世稲荷社 初詣】境内奥に鎮座している「お稲荷様」(代々木出世稲荷大明神)に、東京都内でも随一の仕事運・金運の巨大なエネルギーがあるそうで、人気沸騰中です。ここ代々木八幡宮がお祀りしている神さまは応神(おうじん)天皇=八幡=さまです。 八幡さまは古くは朝廷や武家からの崇敬をあつめ、国家鎮護、破邪顕正の神と仰がれました。 その強いご神徳から「厄除開運」の神さまとして全国で鎮守の神として祀られました。また、応神天皇の時代は、大陸文化が多く渡来したことから「産業・文化の発展と守護」の神、 また母である神功(じんぐう)皇后との神話から「安産」「子育て」「家内安全」の神として、 さらには、「怨霊退散」「渡航安全(交通安全)」の神としてもあがめられています。 《由緒》鎌倉時代、二代将軍・源頼家の側近であった近藤三郎是茂(これもち)の家来で荒井外記(げき)智明(ともあきら)という方が、頼家公暗殺の後、名も宗祐(そうゆう)と改めてこの代々木野に隠遁し、主君の菩提を弔って暮らしていましたが、時に建暦2年(1212年)8月15日夜、霊夢の中で八幡大神の託宣と宝珠の鏡を感得しました。そこで同年9月23日、元八幡の地に小さな祠を建て、鶴岡八幡宮を勧請したのが創始とされています。《例大祭》9月22日、23日は例大祭。両日、境内にたくさんの露店が出て賑わいます。 また、町のお神輿の渡御が行われ、23日には各町神輿の宮入りもあります 。22日夕刻からは神楽殿で演芸が奉納されるほか、23日は午後から夜半まで神代神楽が行われます。 周辺で交通規制があるのでご注意ください。












日付:2014年5月1日
場所:
【第148回東京ぶらり日記:東京花菖蒲めぐり 】5月になると都内の公園、庭園、~社お寺の境内、河川、池沼は草木の花々でいっぱいになります。また花で有名なスポットも多数あります。そこで今回は、5月下旬から6月中旬が見頃の花菖蒲について、江戸の水郷 葛飾区の堀切菖蒲園と水元公園、水戸黄門で有名な徳川光圀公の小石川後楽園、明治神宮御苑の菖蒲田を紹介いたします。これらは、この東京ぶらり日記の中で取り上げたハイライト版として構成しました。詳細は本サイトをスクロールしてご覧いただけます。【第30回東京ぶらり日記:堀切菖蒲園】 堀切の花菖蒲(ハナショウブ)は江戸名所の一つとして古くから知られており、その景観は安藤広重や歌川豊国らの錦絵の題材にもなりました。菖蒲園は文化年間(1804〜1817)当地の農民、伊左衛門によって栽培されたのが始まりと伝えられ、花の種類も約2百種6千株に及びます。【第41回東京ぶらり日記:水元公園菖蒲園】 水元公園は小合溜に沿って造られた、都内で唯一水郷の景観をもった公園です。昭和50年まで、このあたりは都立江戸川水郷自然公園に指定されていました。小合溜から引いた大小の水路が園内を走り、水郷景観を作りだしています。【第65回東京ぶらり日記:明治神宮御苑の花菖蒲田】 明治神宮御苑は、江戸時代初期熊本藩主加藤清正、後に彦根藩主井伊直孝の下屋敷の庭園でしたが、明治時代に宮内庁所管となり代々木御苑と称されていました。ここの菖蒲田は、明治天皇が皇后のために、 全国から菖蒲の優良品種を集めて植えさせたものです。












日付:2014年4月1日
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【第147回東京ぶらり日記:芝桜の丘/秩父羊山公園 】羊山公園は武甲山から北に尾根状に延びる丘陵上にあり、西に秩父市街を一望でき、南には武甲山の雄大な姿を間近に見ることができます。公園は中央部にある小さな谷で南北に二分される形になっており、北側のブロックに「見晴しの丘」など、南側のブロックに「芝桜の丘」などがあります。
「羊山」の名は戦前に県の綿羊種畜場が設けられていたことによります。この名にちなんで芝桜の丘の西に「ふれあい牧場」が設けられ、多くの羊が飼われています。「芝桜の丘」には約17,600m2の面積に9種類、約40万株の芝桜が植えられており、4月上旬から5月上旬にかけて一面がピンクと白に塗り分けられた「埼玉版 パッチワークの丘」になります。芝桜は、ピンク(マックダニエルクッション、オータムローズ)、赤(スカーレットフレーム)、白(リットルドット、アメージンググレース、ホワイトデライト)、紫(エメラルドクッション、オーキントンブルー)が使われ、白と紫(多摩の流れ)を表しています。芝桜は2000年から植えられ始め、それ以降知名度が増して多くの観光客が訪れるようになりました。 開花時期には秩父鉄道や西武鉄道で臨時列車が運転されています。ゴールデンウィークの頃はピークを迎え、公園は大混雑です。夜間は入場できませんので、昼間行きましょう。4月中旬頃から、公園内の無料駐車場は使用禁止なり、公園の外に有料の臨時駐車場が設けられますが、周囲の道路では大渋滞が起きています。芝桜開花期間中は芝桜の丘の隣では「秩父路の特産市」が開かれるほか、まちなかでも各種イベントが催されます。桜の季節には、ソメイヨシノや八重桜などたくさんの桜が咲く。山麓の「牧水の滝」は、秩父を愛した歌人若山牧水の歌碑がある。その他、アスレチック広場、テニスコート、菖蒲田、棟方志功の作品を中心に展示する美術館「やまとーあーとみゅーじあむ」、武甲山に関する資料を集めた「武甲山資料館」があります。2007年から芝桜の時期のみ、入園が有料になりました。入園料300円。団体20名以上250円です。












日付:2014年3月1日
場所:
【第146回東京ぶらり日記:生まれ変わった神田万世橋駅】万世橋駅開業から100年にわたる歴史・文化を大事にし、残された遺構を最大限に活用した施設として「再生」させた「マーチエキュート神田万世橋」が2013年9月14日にオープンしました。同施設の開発コンセプトは「万世橋駅サロン」。鉄道遺構の魅力を生かしつつ、神田川に面した「ノースコリドー」、JR神田万世橋ビルに面した「サウスコリドー」に、趣味性・嗜好性の高い常設ショップと期間限定ショップがそろう。「100年前からの歴史的価値と、これから提供する新しい価値が融合した、唯一無二のサロンになってほしい」と言われている。「マーチエキュート神田万世橋」では、旧万世橋駅(1912年開業、1943年休止)・交通博物館(1936年に鉄道博物館として開業、2006年閉館)時代の遺構も見ることができる。中でも「旧万世橋駅 1912階段」は、駅休止以来、じつに70年ぶりの公開だという。「旧万世橋駅 1935階段」も、交通博物館閉館前以来の公開となるほか、初代駅舎の基礎の一部が保存され、「遺構サークル」として公開されています。ホーム部分は「旧万世橋駅 2013プラットホーム」として整備され、展望カフェと展望デッキを設置。展望カフェはコマンドNプロデュースのカフェ&和酒「N3331」としてオープンし、「『食』を起点としたコミュニティアートの拠点づくり」を進められています。展望デッキでは、目の前を中央快速線の電車が通過し、周辺を走る中央・総武緩行線や京浜東北線・山手線などの走行シーンも楽しめる。秋葉原駅から徒歩4分、神田駅・御茶ノ水駅からも徒歩6分と近距離にあり、新たな「鉄道ビュースポット」としても注目を集めそうだ。なお、展望デッキでのフラッシュ撮影と三脚・脚立の使用は禁止されています。














日付:2014年2月1日
場所:
【第145回東京ぶらり日記:立春を待つ目黒不動尊/瀧泉寺(りゅうせんじ)】五色不動(ごしきふどう)は、五行思想の五色(白・黒・赤・青・黄)の色にまつわる名称や伝説を持つ不動尊を指し示す総称。東京の五色不動は、目黒不動、目白不動、目赤不動、目青不動、目黄不動の5種6個所の不動尊の総称。五眼不動、あるいは単に五不動とも呼ばれる。五色不動は江戸五色不動とも呼ばれており、江戸幕府3代将軍・徳川家光が大僧正・天海の建言により江戸府内から5箇所の不動尊を選び、天下太平を祈願したことに由来するなどの伝説が存在する。目黒不動・目白不動・目赤不動については江戸時代の資料からもその名称が確認でき、江戸の名所として「三不動」の名で知られる。このうち、目黒と目白は山手線の駅名ともなり、特に目黒は区名となっているため有名である。なお五色不動は基本的に天台宗や真言宗の系統の寺院にあり、密教という点で共通しているが、不動明王に限らず明王は元来密教の仏像である。瀧泉寺(りゅうせんじ)は、東京都目黒区下目黒にある、天台宗の寺院。山号は泰叡山(たいえいざん)。不動明王を本尊とし、一般には目黒不動(目黒不動尊)の通称で呼ばれる。江戸五色不動の一つ。江戸三十三箇所第33番札所。関東三十六不動第18番。青木昆陽の墓があることでも知られる。寺伝では、808年(大同3年)円仁が下野国から比叡山に赴く途中に不動明王を安置して創建したという。東国には円仁開基の伝承をもつ寺院が多く、本寺の草創縁起もどこまで史実を伝えるものか不明である。860年(貞観2年)清和天皇より「泰叡」の勅額を下賜され、山号を泰叡山とした。1615年(元和1年)本堂が火災で焼失した。1630年(寛永7年)寛永寺の子院・護国院の末寺となり、天海大僧正の弟子・生順大僧正が兼務するようになった時、徳川家光の庇護を受けて、1634年(寛永11年)50棟余におよぶ伽藍が復興し、「目黒御殿」と称されるほど華麗を極めた。1812年(文化9年)「江戸の三富」と呼ばれた「富くじ」が行われた(他は湯島天満宮、谷中感応寺)。富くじ興行は1842年(天保13年)天保の改革により中止となった。寺名の由来となった、境内の独鈷の滝(とっこのたき)を浴びると病気が治癒するとの信仰があった。江戸時代には一般庶民の行楽地として親しまれ、江戸名所図会にも描かれている。また、落語の目黒のさんまは、この近辺にあった参詣者の休息のための茶屋(爺が茶屋)が舞台だとされる。江戸時代には多いに栄え、門前町が発達したが門前町の名物として当時目黒の名産品であった竹の子を使った竹の子飯と棒状に伸ばした練飴(白玉飴)を包丁でトントン切っていく目黒飴が人気であった。また、餅花という細い竹にしんこ餅を付けた物や粟餅などもあったという。江戸名所図会にはこの目黒飴屋の風景が載っていて、図会に載っている絵では従業員が10人近くみられる大店であったことがうかがえる。境内は台地と平地の境目に位置し、仁王門などの建つ平地と、大本堂の建つ高台の2段に造成されている。仁王門をくぐると正面に大本堂へ至る急な石段がある。石段下の左方には独鈷の滝(とっこのたき)、前不動堂、勢至堂などがあり、右方には書院、地蔵堂、観音堂、阿弥陀堂などがある。












日付:2014年1月1日
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【第144回東京ぶらり日記:新井薬師】梅照院(ばいしょういん/新井薬師)のご本尊は、薬師如来と如意輪観音の ニ仏一体の黄金仏で、高さ一寸八分(約5.5cm)の御尊像です。 この御本尊は弘法大師御作と言われており、鎌倉時代の代表的な武将、 新田家代々の守護仏でした。 しかし、鎌倉時代から南北朝にかけての戦乱のさなかに、ある日の夕方、 御尊像を納めたお城の仏間から忽然と光が放たれ、それとともに御尊像は 消え失せてしまいました。その後、相模国(神奈川県)から行春(ぎょうしゅん)という沙門(僧)が、 新井の里を訪れて草庵を結びました。清水の湧きいずるこの地こそ、 真言密教の行にふさわしい土地と感じてのことですが、不思議なことに、 草庵の庭の梅の古木から光が出るという現象が夜毎に起こり、 天正14年(1586年)3月21日、その梅の木の穴から新田家ゆかりのご尊像が発見されました。 この御尊像を安置するために、行春が新たにお堂を建立したのが、 梅照院の始まりです。不思議な出来事とともに出現した薬師如来は、その後、広く、深く信仰されました。特に、二代将軍秀忠公の第五子和子の方(東福門院)が患った 悪質な眼病が、祈願して快癒したことなどから「目の薬師」と呼ばれ、 あるいは第五世玄鏡が元和3年(1617年)に如来の啓示によって、 秀れた小児薬を調整したことなどから「子育て薬師」とも呼ばれて、 今日まで大変多くの方に、篤く信仰されています。












日付:2013年12月1日
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【第143回東京ぶらり日記:和田堀公園の紅葉】和田堀公園(わだぼりこうえん)は、東京都杉並区に所在する都立公園です。善福寺川に沿う形で広がっており、都内とは思えないほど閑静かつ広大な緑地帯により形成された公園です。住民の憩いの場としてはもちろん、遠方からの来訪者も多く、春には桜の名所として、秋は和田堀池周辺のイロハモミジの赤い葉が水面に映り、イチョウの黄葉と相まって見事な錦秋の風景を織り成します。
主な紅葉する木 イロハモミジ ケヤキ イチョウ サクラ 主な紅葉する木 イロハモミジ ケヤキ イチョウ サクラ です。多くの来訪者が訪れます。橋がまたがる川伝いの公園。当地は地盤が低く、住宅地の低層を蛇行する善福寺川は氾濫を繰り返す歴史があります。氾濫により自然に溜池が作られ、古くから水はけの悪い土地でもあります。戦後の宅地化が進む中、河川を改修して周囲に池を作り、遊具や広場を整備し公園として開園しました。現在では武蔵野の自然が調和した公園となっています。公園内全域が東京都の防災公園(大規模救出活動拠点)に指定されています。白山前橋(和田堀公園西端の小山広場近く)を境に、上流には善福寺川緑地が広がっています。名称は異なるものの、緑地帯として連続性ある空間を構成しています。周辺一帯は杉並区内で最も緑が多い地域で、公園内の樹林は東京都保護樹林に指定されています。希少鳥類の観測地として知られカワセミ、ジョウビタキ、ウグイスの姿も観測されており、公園内では野鳥観察を楽しむ来訪者も多いです。












日付:2013年11月1日
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【第142回東京ぶらり日記:善養寺の影向の松と影向菊花大会】「影向(ようごう)の松」は、香川県さぬき市にあった「岡野マツ」とともに「日本一の名松」とされていましたが、岡野マツが1992年に枯死した今では全国一の名松とされています。「影向の松」がある善養寺(ぜんようじ)は江戸川の堤防下にあり、真言宗豊山派(ぶざんは)の寺院で、室町時代の大永七年(1527年)に山城国醍醐山の頼澄法印が霊夢のお告げによりこの小岩の地を訪れ堂宇を建立したのがはじまりと伝えられています。しかし永正六年(1509年)にこの寺の記事があることから寺の草創はもう少しさかのぼりそうです。影向の松は地上2mの高さから力強く太い枝を四方八方に伸ばしており、その繁茂面積は800平方メートルにも及びます。樹齢600年ともいわれ、枝の広がりの大きさと美しさは全国屈指のもの。延享二年(1745年)に書かれた「星住山星精舎利記」には、当時すでに境内七尋五丈の老松であったことが記されています。この影向の松と並んで仁王門の左手には、かってはもう1本の名松「星降り松」がありましたが、残念ながら昭和15年に枯れてしまいました。ちなみに「影向」とは、神仏が一時この世に姿を現すことをいい、影向の松とは神が憑依(ひょうい)した松のことで、能の舞台などの背景にある松の絵は、影向の松を表したものです。大きなマツはどんどん枯れて少なくなっていますので、保護には十分気をつけていただきたいものです。均整のとれた枝振りにより日本屈指の樹形を示すことから、2011年9月21日に国の天然記念物に新指定されました。
また、ここ善養寺では、毎年「影向菊花大会」が開催されます。昭和43年にスタートしたこのイベントは、影向菊花会会員により育てられた菊の品評会や展示会を行うとともに、即売会も実施。色、形、スケールなど、すべての面で優れた菊が勢ぞろいすることから、毎年多くの人が訪れます(前回延べ来場者数:11万人)。約1000uの境内には、高さ1.5m、直径30cmの大輪をつける“盆養花壇”や小菊を垂れ下がるように咲かせた“懸崖花壇”、菊の盆栽“盆栽花壇”、など、会員が丹精込めて育てた自慢の菊約1000鉢が展示されるが中でも造景大花壇は他の菊まつりでは滅多に見ることが出来ない素晴らしいものです。入場無料。平日は午前9時から午後4時30分まで、土曜日・日曜日・祝日は午後8時までで、ライトアップも行っています。












日付:2013年10月1日
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【第141回東京ぶらり日記:龍眼寺(萩寺)】天台宗 慈雲山 無量院 龍眼寺。龍眼寺創建は応永2年(1395年)、良博大和尚が観世音の夢告とおり、柳島辻堂の下に眠る観世音をまつり、村に流行していた疾病を平癒し、慈雲山無量院柳源寺と号しました。その後、寺の湧き水で洗顔すると目がよくなると眼病平癒の観世音として信仰を集め、龍眼寺と改名しました。江戸初期には、住職が百種類もの萩を諸国から集めて境内に植えたことから、通称“萩寺”として多くの文人墨客が訪れ、「江戸名所図会」には萩を愛でる人々で賑わう様子が描かれています。境内に咲く四季折々の花々は、訪れる人の心を和ませ、松尾芭蕉、落合直文などの句碑が昔の風情を偲ばせます。境内入口の正面左には榎本其角と大納言家長郷の歌碑が、正面右には松尾芭蕉の句が彫られています。榎本其角は「つき見とも見えずや露あり庭の萩」、大納言家長郷は「ききしより見る目ぞまさるこの寺の庭に散りしく萩の錦は」と詠み、松尾芭蕉は「濡れてゆく人もおかしや雨の萩」と詠み彫られています。芭蕉は奥の細道の旅で小松に滞在中の7月26日に歓生亭で巻かれた「俳五十句」の一句で、明治5年葛飾の素丸が建立。都内の芭蕉句碑37基の中で最も古い句碑となっています。螺舎一堂(らしゃいちどう)は「月や秋 あきや夜にして 十五日」と、百寿(ひゃくじゅ)は「春盛る梅のうしろに□の花」と、冬嶺(ふゆみね)市町は「ひと色を千々の錦や萩見寺」、「露の世にこぼさぬ露や萩の上」と詠み、碑が彫られています 。本堂は夢殿を模し、八聖(正)道にちなんだ八角のお堂(八正道とは、理想の境地に達するために実践する正しい行いや生活態度のこと)があります。布袋堂には亀戸七福神の布袋尊を、地蔵堂には子護八起地蔵尊(ねごやおきじぞうそん)を安置しています。江戸下町の秋をお楽しみください。














日付:2013年9月1日
場所:
【第140回東京ぶらり日記:秋スペシャル(高原へ行こう:尾瀬B)】尾瀬といえば雪解け一番、春の水芭蕉。濃淡豊かな緑の木々と湿原に青い空、白い雲、ニッコウキスゲ、ワタスゲなど高山植物の花満開の夏。そして紅葉が素晴らしく心も洗われる秋の尾瀬。秋スペシャル(高原へ行こう)では“秋の尾瀬を満喫”していただきます。シラカバ、ブナ、カエデなどの広葉樹が山肌を赤や黄色に染めます。それだけでなく、さらにおすすめなのが尾瀬ならではの湿原の紅葉です。これを『草紅葉』といいますが、見ごろは9月末から10月中旬にかけて。秋空の青に赤、黄色のグラデーションに彩られる山と相まって見られる黄金のじゅうたん。その景色は感動せずにいられません。また、この時期の朝もやの尾瀬ヶ原もとても神秘的。シーンと静まりかえった湿原に聞こえる動物や小鳥たちの声。ひんやりとした空気の中で尾瀬ヶ原を独り占めできる時間帯が早朝です。尾瀬の秋は夏とまったく違った魅力を発見できると思います。山々や湿原の紅葉のあでやかさと何となく冬に向かっていく物悲しい感じが心地良く、澄んだ秋風が都会のストレスから解放させてくれます。バックナンバー【第101回東京ぶらり日記:春スペシャル(高原へ行こう:尾瀬@ 水芭蕉散歩)<2010年6月1日>】【第115回東京ぶらり日記:夏スペシャル(高原へ行こう:尾瀬A)<2011年8月1日>】もご覧ください。














日付:2013年8月1日
場所:
【第139回東京ぶらり日記:鷺草(さぎそう)】 ランの一種。日本固有種ですが、天然物は減少の一途をたどり、絶滅危惧種(環境省レッドリスト)に指定されている植物です。7月〜9月に白い花が咲きます。唇弁が幅広く、その周辺が細かい糸状に裂ける様子がシラサギが翼を広げた様に似ていることからこの名前で呼ばれる。この花には3〜4cmにもなる長い距があり、この末端に蜜が溜まります。花は、特に夜になると芳香を発します。葉は根出葉が少数つきます。花期になると茎は単立して高く伸び、20cmから時には50cmにも達し、先端近くに1輪から数輪の花をつけます。地下には太い根が少数つきます。また根によく似た太い地下茎が何本か伸び、この先端が芋状に肥大してこの部分だけが年を越します。日当たりのよい湿地に生えますが、しばしば観賞用に栽培されます。先述の地下茎の先端に形成される芋での栄養繁殖で容易に増殖できる事に加え、種子による繁殖も無菌培養などにより比較的容易なため、園芸店では1球あたり数百円以下で大量に販売されています。にもかかわらず、保護されている自生地ですら盗掘が絶えません。遠目にも目立つ開花期は、移植に最も不向きな時期であり、注意深く掘りあげなければ枯れてしまいます。開発による自生地の減少に加えて、採集圧が加わるため、今では自生状態でみられる場所はきわめて限られます。なお、本種は市販球根を1回開花させるだけなら難しくはないが、植物ウイルスの感染による枯死がしばしば見られ、同一個体を長年にわたって健全な状態で維持栽培するのはベテラン栽培家でも容易ではありません。サギソウは世田谷区の「区の花」に指定されています。昔は大規模なサギソウの自生地が存在したためでです。また、世田谷区にはサギソウに絡んだ昔話も残っています。東京は世田谷の戦国時代。今から400年ほど昔のこと・・・奥沢城から世田谷城に、政略結婚で嫁いだ吉良頼康公の側室「常盤姫(ときわひめ)」が悪い噂話のために追放され、身重で逃亡し、自害して身の潔白を証明しようとしました。その際、飼っていた白鷺の足に遺書をくくり付け飛ばしましたが、白鷺は途中で力尽きて死んでしまう。死因は飛び続け力尽きたとも、鷹狩の鷹や弓矢に落とされたともいわれています。その後、姫の不幸な嫁ぎ先であった世田谷城に、夏になるとシラサギそっくりの花が咲くようになったということです。現代、世田谷区にはサギソウの自生地は残っていません。世田谷のサギソウは、寺社や公園の人工的な湿地にあるものか、園芸用に育てられているものしか姿を見ることが出来ません。夏には「サギソウ祭り」というイベントが開かれ、そこではサギソウの鉢植えも売られている。サギソウの花言葉は「夢でもあなたを想う」












日付:2013年7月1日
場所:
【第138回東京ぶらり日記:阿佐ヶ谷バリ舞踏祭】第12回阿佐ヶ谷バリ舞踊祭は2013年8月3日(土)4日(日)の2日間で開催される予定です。阿佐ヶ谷バリ舞踊祭は、阿佐ヶ谷神明宮境内でのインドネシア・バリ島の舞踊や音楽の奉納上演をメインに2002年からスタートしたお祭りです。地元の名物恒例行事「阿佐谷七夕まつり」と同じ時期に行われ、バリ島の芸能を、ワクワクした空気とともに楽しんでいただけるような、そんな催しになれたら、という思いで企画されています。毎年、バリの古典舞踊やめったに観ることのできない地域の芸能から、近年創作された最新のバリを伝える踊りまで、多くの日本の舞踊家・演奏家を中心にバリ島の舞踊家・演奏家も交えて阿佐ヶ谷の地に集結し、バリ芸能の縦横に広がる世界を披露。会場となる神社・阿佐ヶ谷神明宮の神聖な気配と相まって、バリ島のお祭りの芸能そのままの濃密な雰囲気を、きっと味わっていただけることでしょう。バリ気分満点の、真夏一夜の物語をたっぷりとお楽しみください。◆詳細は、阿佐ヶ谷バリ舞踊祭のHP、ブログ[戦場の旗手]をご覧ください。














日付:2013年6月1日
場所:
【第137回東京ぶらり日記:世界で唯一飛行可能な零戦と所沢航空発祥記念館】所沢航空発祥記念館は、埼玉県所沢市の所沢航空記念公園の敷地内にある航空をテーマとした埼玉県立の博物館。公園のシンボル的存在で1993年に開館した施設。
1911年、アンリ・ファルマン機を用いた日本における初の試験飛行が東京の代々木練兵場(現・代々木公園)から所沢に移送されて行われた事を日本の航空の発祥とし、それを記念して建てられた。
所沢飛行場開設100周年を記念して所沢市並木の所沢航空発祥記念館が開催している特別展「日本の航空技術100年」は3月いっぱいで閉幕し、展示中の零戦(海軍零式艦上戦闘機五二型)も解体する予定だったが、好評なため8月31日まで展示を延期することになった。
 同記念館では、零戦の展示が好評なため所有者の米国東部のプレーンズ・オブ・フェイム航空博物館と展示延長に関する交渉をしたところ、8月末まで展示することに合意してくれ、展示期間が延長したという。
 展示している零戦は1944(昭和19)年6月にサイパン島で米海兵隊によって無傷の状態で接収され、その後、プレーンズ博物館の創設者が引き取った。この零戦は堀越二郎・三菱航空機技師が設計を担当。全幅11メートル、全長9・1メートル、最大速度は時速約564キロ、航続距離1920キロもある当時、世界的にも飛行性能が優秀な飛行機として評価された。残存する世界で唯一飛行可能な零戦として整備・保存されている。
この記念館は、航空機の原理や航空技術、歴史などを迫力ある多数の実機や映像などを交えて、楽しみながら理解できる複合型の航空記念館です。
所沢航空記念公園内の広大な立地を生かした実機を多数収容した展示館であり、200名収容の大型上映設備を備え映像でも縦15m、横20mの大スクリーンで航空機関連の作品が、立体音響システムを採用したサウンドで上映されている。また、ジャンボジェット機のフライトシミュレーターでの模擬操縦体験、レーダー、管制機器などの展示がある。
所沢から発展していった日本の航空機史の理解・飛行原理の知識の取得など、航空産業全般が理解できる展示の工夫がされている。
屋外展示機YS-11、C-46は屋外展示物のため、無料で見学可能。YS-11は年に数回、内部公開される。公開日程は公式サイト参照












日付:2013年5月1日
場所:
【第136回東京ぶらり日記:深大寺なんじゃもんじゃの木】<深大寺については、2010年11月1日第106回東京ぶらり日記「黄昏の深大寺」で紹介済みですので、そちらをご覧願います。> なんじゃもんじゃの木(通称)◆学名:chionanthos retusus ◆和名:一葉たご(ひとつばたご)【キンモクセイ科】◆学名 Chionanthus retusus(Chionanthus : ヒトツバタゴ属 retusus : 先端が、ややくぼみのある円形の Chionanthus(チオナンサス)はギリシャ語の「chion(雪)+ anthos(花)」が語源で、白い花のかたまりを雪にたとえた。)◆英語名:snow flower (スノーフラワー)大きくしてみるとかわいいでしょ?遠くから見ると雪をかぶったようにもみえるでしょ?それでSNOW FLOWERって名前があるみたいです。ナンジャモンジャとは、見慣れない立派な植物、怪木や珍木に対して地元の人々が付けた愛称。すなわち、特定の植物の種名ではない。ヒトツバタゴを指すことが多いが他の樹種の場合もある。あんにゃもんにゃとも。「ナンジャモンジャ」と名付けられる植物の樹種は、ヒトツバタゴのほか、ニレ、イヌザクラ、ボダイジュなど様々です。「ナンジャモンジャ」と称される理由について、民俗学では、元々は占いや神事に利用されていたもので、植物名で直接呼ぶことが憚られたものではないか、とみる説などがあります。『なんじゃもんじゃ』の木は、明治の終わり頃まだ一般的に知られていなかったため、「あれはなんじゃ?」という具合に、この木を不思議がったことから呼ばれるようになったと言われます。限られた地域でしか自生していないため、珍しい貴重な植物で、四月下旬から五月上旬にかけ、まるで雪をかぶったかのような白い花を咲かせます。その姿はまことに見事です。深大寺にある『なんじゃもんじゃ』の親木は神宮外苑にあると言われています。毎年5月上旬に、なんじゃもんじゃの木の下で、東京消防庁音楽隊による「なんじゃもんじゃコンサート」が開催されます。なんじゃもんじゃの白いプロペラのような花は、5月3・4・5日のゴールデンウィーク中に満開を迎え、防災意識を高める啓発活動の一環として深大寺でコンサートが20年来行われています。近年は、深大寺と縁のある諸団体にも協力していただき、合唱・吹奏楽・ブラスバンド等、様々なジャンル・楽器を用いたコンサートも同時期に開催しています。新緑の爽やかな深大寺で、参拝者の皆様に楽しんでいただける賑やかなコンサートを目指しております。












日付:2013年4月1日
場所:
【第135回東京ぶらり日記:目黒川〜桜まつり〜】目黒川は 世田谷区から 目黒区 品川区 を通って東京湾に注ぐ延長8キロの川です。大橋から目黒駅辺りまで約3.8キロの川沿い に約830本のソメイヨシノが植えられています。「目黒川を豊かな環境にする会」主催の桜祭りが、毎年行われ、川沿いにはたくさんの提灯が取りつけられ、お花見気分は最高潮です。中目黒駅から池尻大橋駅近くの大橋までの川沿いでは、町会による甘酒やお餅の提供もあります。川岸に伸びる遊歩道はさわやかな印象のなごみスポット。大橋から下目黒にかけて、大勢の花見客でにぎわいます。目黒川沿いには個性派ショップも立ち並び、花見とともにショッピングを楽しむ人も多いです。若いカップルには目黒川を散策後、西郷山公園(50本近い桜があり)に行き、代官山でショッピングとカフェで食事コースもあり、小さいお子様連れの家族には中目黒公園にはさくらのテラスというお花見には最高の場所があり、芝生の広場もあります。














日付:2013年3月1日
場所:
【第134回東京ぶらり日記:おりがみ会館】平成25年1月8日(火)〜3月2日(土)おひなまつり〜おりがみ会館所蔵作品より〜展示中です。創業安政5年(1858年)、おりがみ会館は染紙・千代紙製造の老舗で日本古来の伝統技術「和紙染め」が認められ、文京区の文化遺産に指定されました。誰でも「折り鶴」や「奴さん」などいくつかの折り紙を知っていると思います。 中世に儀礼的に使われていた折り紙(*1)が、遊びとして広まったのは、紙が庶民にも使えるようになった江戸時代。このころにたくさんの折り方が考案され、折り紙文化は花と開いたのでした。この時代から続く小林染紙店が、正方形で片面が色、もう片面は白というスタイルの「折り紙」を1885(明18)年、初めて世に送り出しました。その後、株式会社 ゆしまの小林 となり、百歳になっても楽しめるバリアフリーの文化遺産「折り紙」を伝承していくために、1972(昭47)年、おりがみ会館を設立しました。実はヨーロッパにも独自に折り紙はあったのです(*2)。日本の鎖国政策などもあり、日欧折り紙は交流することなく、それぞれ独自の折り方が発達しました。明治になって政府が取り入れた西洋教育にフレーベルの折り紙メソッドがあり、日欧の折り紙はここに相まみえたのでした。その後、古くから伝わる伝承折り紙に加えて、新たな折り方が考案され、日本の折り紙文化は世界的に広まり、今では「origami」という言葉が通用するまでになりました。 1階は和紙を使ったハガキや便箋などの売り場です。ウチワや紙人形など手軽なお土産となるかわいい民芸品も並べられてます。 中2階は展示場です。折り紙作家による創作折り紙やちぎり絵などの作品が、定期的に入れ替わりで展示されています。3階は折り紙のセットや千代紙、友禅紙が所狭しと並ぶ売り場です。柔らかな和紙の織り成す美しい色彩がフロア全体にあふれています。折り紙に関する書籍や雑誌も、子ども向けから専門書、英語表記のものまでそろっています。 工房で和紙を染める若い職人さん。みるみる手染め和紙がならんでいく 4階は手染め和紙工房、おりがみ会館の和紙はほとんどここで製作されています。染め師の職人さんが一枚一枚、和紙を染めあげていく実演を見学することができます。色鮮やかな和紙が次々と染めあげられていく伝統の技を、目の前で見るのもなかなかできない体験です。5、6階の教室では、毎日、折り紙や紙人形の講座(*3)が開かれています。初心者コースからかなり複雑な作品までの折り紙講座はもちろん、和紙を使ったコサージュやアクセサリー作り、和紙人形や和紙盆栽、ちぎり絵など、和紙に関した多彩なジャンルの知識と手法を知ることができます。 折ってもちぎれない日本の和紙と細やかな手技が育てた折り紙、その世界に、あなたも一日遊んでみませんか。*1−儀礼折り紙の今に残る名残が熨斗紙(のしがみ)です。*2−「ほかけぶね」「風船」がヨーロッパから伝わった折り紙といわれています。*3−講座は有料で予約が必要です。【開館時間】午前9時〜午後6時【休館日】日曜・祝日、年末年始、夏季休暇【入館料】無料【問い合わせ先】TEL03-3811-4025(株式会社ゆしまの小林)【公式サイト】http://www.origamikaikan.co.jp/  












日付:2013年2月1日
場所:
【第133回東京ぶらり日記:世田谷美術館】世田谷美術館は、四季折々の変化が美しい、緑豊かな東京都立砧公園の一角に位置します。恵まれた自然環境を生かしたリラックスできる空間の中で、"芸術とは何か"といった根源的なテ−マのもと、分野に偏らない、幅広い視野で企画される展覧会や催し物、講座など様々な活動をとおして、芸術との出会いの場を提供しています。ライブラリーやレストラン、ミュ−ジアムショップなどの充実した施設とともに、一日ゆっくりと過ごしていただける美術館です。世田谷美術館は1986年3月30日に開館しました。芸術を心の健康を維持するものとして位置づけ、これまで展覧会や、各種プログラム&イベントなど様々な活動を展開し、日常生活と芸術をつなぐ場を提供しています。世田谷区という、他の地域に類を見ないほど芸術家が多く在住している特殊性をいかし、在住作家の作品調査,研究、収集活動を通じ、それらの作品を展覧会などで紹介しています。一方、先史美術から現代美術まで、幅広い分野の芸術を国内や海外の美術館・博物館と交流しながら、積極的に紹介しています。今開催中の企画展は、「エドワード・スタイケン写真展〜モダン・エイジの光と影1923−1937」(期間:2013年1月26日〜4月7日)です。米国写真界の巨星、エドワード・スタイケン(1879-1973)。ピクトリアリズムとよばれる潮流のなかで芸術的な写真をきわめた青年期から、ニューヨーク近代美術館の写真部長となり冷戦期の世界で900万人を動員した一大写真展「ザ・ファミリー・オブ・マン」などの企画に至るまで、スタイケンは約70年にわたって写真の可能性を貪欲に追究し続けました。本展では、彼が商業写真界に飛び込んでモダニズムの旋風を巻き起こした1920-30年代の、約200点に及ぶファッションとポートレートの仕事を展示しています。併設の「アートライブラリ」は世田谷美術館が収蔵する素朴派をはじめ、国内外の近現代の作家、世田谷区にゆかりのある作家の画集やカタログを所蔵している専門図書室です。ミュージアムショップでは、当館でしか手に入らないオリジナル商品、展覧会図録を豊富に取り揃えております。フレンチ・レストラン「ル・ジャルダン」は 砧公園の景色を眺めながら、気軽なランチからコース料理まで、お楽しみいただけます。○営業時間:火〜土 ランチタイム 11:00〜 14:00 ティータイム 14:00〜17:00 ディナータイム ※予約制 17:00〜19:00 日・祝日 11:00〜17:00














日付:2013年1月1日
場所:
【第132回東京ぶらり日記:浅草七福神巡りと縁結び今戸神社】七福神とは、福徳をつかさどると信じられた七種の神。1420年に京都で七福神の風流行列の行なわれた記録があります。都市商業社会で流行し、正月初夢に、宝船に七福神が乗り組んだ絵を枕下に敷いて寝る、初詣に七福神をまつる社に参詣するなどの習俗があります。 七福神の歴史は、鎌倉時代、日本古来の守り神「恵比寿」の信仰に、中国を経てインドから「大黒天」、「弁財天」が加わりました。室町時代にかけて三神の信仰が庶民に深まってくると、「毘沙門天」「布袋尊」「福禄寿」「寿老人」の四神が加えられ、人々の願望に応える七福神として信仰の象徴となったと言われています。浅草名所七福神詣は、江戸市中でも有名だったそうで、戦後一時期やむなき中断しましたが、昭和52年〜復活、今に受け継がれています。浅草七福神巡りは 東京都台東区を中心に荒川区も含めて9寺社に祀られている七福神の巡礼札所。古くは江戸時代末期に始まり親しまれてきました。 福禄寿、寿老人が二社づつあるので計九ヶ所で構成されています。重複分である福禄寿を祀る今戸神社と寿老人を祀る鷲神社は別の神社巡りコースである「下町八社」にも指定されています。@浅草寺[大黒天]A浅草神社[恵比寿]B待乳山聖天[毘沙門天]C◆今戸神社[福禄寿]星神、寿星、南極星または中国嘉祐年間に実在した道士ともいわれ人望福徳を授ける福神であります。頭は長く、背は低く、白髭童顔の姿をし、人に長寿と幸福を与える福神であります。●今戸焼きと招き猫で福を呼び集め、「婚活」には一番の神社です。七福神以外でも若いカップルの参拝が後を絶ちません。D橋場不動院[布袋尊]E石浜神社[寿老人]F吉原神社[弁財天]G鷲神社[寿老人]お酉様さまで有名な神社です。熊手の出店が出る時は回りが見えないほど大盛況です。正月は茅の輪も飾られた神社です。H矢先稲荷神社[福禄寿] 浅草寺のような100万人を越える参拝者があるところと、地元の氏子しか来ないお宮さんまでピンキリの七福神です。なぜか、静かな神様の方がホッとします。 一通り回ると「福絵」に朱印がもらえます。














日付:2012年12月1日
場所:
【第131回東京ぶらり日記:生まれ変わった東京駅丸の内駅舎】復元工事をしていた東京駅丸の内駅舎が10月1日にグランドオープンしました。東京駅が開業したのは、98年前の1914年(大正3年)12月。すでに開業していた新橋駅と上野駅を結び、首都の鉄道網の中心駅として建設されました。駅舎の設計を担当したのは、日本近代建築の祖とされ、日本銀行本店などを手がけた辰野金吾(1854〜1919)。赤レンガ造りの3階建て駅舎を6年9か月かけて完成させました。南北の駅舎にそれぞれ取り付けたドーム形の屋根が目をひく洋風デザインでした。重厚に作られた駅舎は、23年の関東大震災でもほぼ無傷でしたが、終戦直前の45年5月、米軍機による空襲で駅舎が炎上。ドーム屋根と3階部分を焼失しました。急きょ行われた修復工事では、ドームに代えて八角形の屋根がかけられ、3階部分は再建されませんでした。戦後長く、修復後の姿で利用され続けましたが、駅舎復元を求める住民運動もあって、JR東日本は1999年に復元を決定。駅舎は03年に国の重要文化財に指定されました。復元工事は、07年5月に開始され、5年をかけた工事が完成、今年10月1日に開業を迎えました。駅舎の南北両端にあるドームの天井には鉄道の車輪や動物の装飾が施され、荘厳なムードを醸し出しています。東京駅3階も67年ぶりお目見えしました。ドーム屋根の内側に施された干支「巳(み)」のレリーフ 復元の目玉は、創建当時を再現したドーム形の屋根。高さは約35メートルで、これまでの八角屋根より約2メートル高い。戦災復興工事で八角屋根を設置した際、内部に残されたレリーフなどは見えない状態となりました。今回の復元工事では、3階から天井にかけて創建時のデザインを忠実に再現。数少ない写真や文献などをもとに、2メートルを超える鷲(わし)の彫刻や花飾りのレリーフなどが復元されました。戦火による焼失を免れた創建当時のレリーフも一部使われています。レリーフの中には、方角を示す干支(えと)や、豊臣秀吉の兜(かぶと)をかたどった飾りなどもあり、和を感じさせる装飾が施されているのも特徴です。北ドーム駅舎内に再開業された「東京ステーションギャラリー」では、レンガ造りの内壁を生で見ることができ、建設当時の建築技術を直接感じることができます。またドーム2階に上がれるので、より近くドーム内部を見ることができます。再開した「東京ステーションホテル」も八重洲側とは趣が異なり、別の雰囲気を楽しむことができます。乗換えだけでなく、一度改札を出てゆっくり駅舎を見るのもよろしいかと思います。












日付:2012年11月1日
場所:
【第130回東京ぶらり日記:浅草酉の市(鷲神社・酉の寺:鷲在山長國寺)】鷲神社は、日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀り、武運長久、開運、商売繁盛の神として信仰されています。酉の市は、11月酉の日(十二支)に、浅草の酉の寺や各地の鷲神社などで開かれ、開運招福・商売繁盛を願うお祭りです。浅草の酉の寺(鷲在山長國寺)では江戸時代からずっと開き続けてきました。江戸っ子には、お正月を迎える最初のお祭りとして人気になりました。当時“酉の町”(とりのまち) とも呼ばれて、11月最初の酉の日(一の酉)が一番ご利益があると思われていました。平成24年の浅草酉の市の日程は、11月8日(木)/11月20日(火)の二の酉です。浅草酉の市では、酉の日の0時〜24時までまるまる24時間開いています。くわしく言うと、酉の日前日の夜に続く深夜12時(酉の日の0時)に始まって〜酉の日当日の夜に続く深夜12時(酉の日の24時=次の日の0時)に終了します。浅草以外の酉の市については24時間開催しているとは限りませんのでご確認してからお出かけ下さい。熊手が酉の市の縁起物になった言い伝えは三つあります。(1)熊手のツメで運を鷲づかみ:鷲がツメで獲物をガッチリ捕らえる事になぞらえた。(2)戦勝を願った軍扇:勝戦を願い神仏に奉納した軍扇が、勝って戻ると熊手のように反り返った骨だけになっていた。この二つの理由から「財宝をつかむ」「運を勝ち取る」熊手守りになったという。(3)実用の農具から江戸っ子の洒落がきいた縁起物へ:酉の市の始まりは江戸近郊農村の収穫祭といわれる。ここで売られた、落ち葉などをかき込む熊手が江戸市中からの見物人が多くなると、お宝を詰め込んで「運をかっ込む」「福をはき込む」縁起熊手になったといわれます。












日付:2012年10月1日
場所:
【第129回東京ぶらり日記:秋葉神社(あきばじんじゃ)】秋葉神社(あきばじんじゃ)は、「秋葉原」という地名の由来になったといわれている神社です。しかし現在は秋葉原にはなく、台東区松が谷三丁目に移転しています。明治のはじめに東京府内に火事が多発し、英照皇太后(明治天皇御母)はそれを憂慮していました。そして明治天皇が太政官に命令して宮城内紅葉山より鎮火三神を奉遷して東京府火災鎮護の神社として現在の秋葉原の地に創建したのが始まりだそうです。当時秋葉神社の周辺には火除のための広大な空き地があり、この辺りを「秋葉原(あきばはら)」「秋葉っ原(あきばっぱら)」と呼んだそうです。その後、明治21年に鉄道駅設置のため境内地を払い下げ現在の台東区松が谷三丁目に御遷宮しています。跡地に建設された鉄道駅の駅名は「秋葉原」となりますが、読み方は当時呼ばれていた「あきばはら」ではなく、「あきはばら」が採用されました。理由については諸説あるようですが、その後は「あきはばら」が一般的になっていきます。それゆえ、「あきばはら」と読んでも、あながち間違いとは言えません。












日付:2012年9月1日
場所:
【第128回東京ぶらり日記:都立砧公園(きぬたこうえん)】紀元2600年記念事業として都市計画決定された大緑地が前身である砧公園は、戦時中は防空緑地、戦後は都営のゴルフ場として開放されていました。当初の造成テーマは、家族ぐるみで楽しめる公園。この基本計画に沿って、自然の地形を活かし、芝生広場と樹林で構成されるファミリーパーク区域と運動施設区域とを整備しています。見どころは東京ディズニーリゾートと同じくらいの広さに、@ファミリーパーク :ゆるやかな起伏をなす広場に、緑濃い芝生が敷きつめられ、天気のよい休日には、お弁当を広げる家族の輪、そしてその間を子供たちが裸足で走りまわる光景がみられます。なお、ファミリーパーク内への犬の連れ込み、自転車の乗り入れはできません。 A吊り橋:園内には多摩川の支流の一つ、谷戸川が流れています。一番上流には、区部では珍しい吊り橋が架かっています。このほか、園内の谷戸川には4つの橋があります。Bバードサンクチュアリ:コナラ、サワラ、エゴノキなどの樹林を柵で囲って保護区にしています。中には池があり、湿地の植物も生えています。このバードサンクチュアリにはカルガモ、コサギなど12〜13種類の野鳥が飛来しています。鳥たちの様子は観察窓から見ることができます。<詳細は別の回でご紹介の予定です> Cサクラ:園内には随所にサクラが植えられていますが、特に多いのはファミリーパーク内の谷戸川沿い。春には、サクラの名所として賑わいます。大木が多く、枝が地際まで伸び、目の高さで花を見ることができます。Dサイクリングコース:ファミリーパーク一周する1.75kmのコース。どなたでも自転車を持ち込んでサイクリングを楽しむことができます。風を感じながら、のんびりサイクリングはいかがでしょうか。Eアスレチック広場:8種の遊具があり、こどもたちの人気スポットです。 F美術館:昭和61年3月、園内の一画に世田谷美術館が開館しました。開放的なムードの美術館です。フランス料理のレストランを併設しています。<詳細は別の回でご紹介の予定です>
四季を通じて自然を楽しむことができます。












日付:2012年8月1日
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【第127回東京ぶらり日記:深川八幡水かけ祭り】源氏の氏神である八幡大神を尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受けるとともに、町民層にも「深川の八幡様」と親しまれました。広く美麗な ... 神輿のお清めと担ぎ手の暑さ対策のために次々に神輿に水がかけられることから、「水かけ祭り」の別名もあります。富岡八幡宮の例祭は8月15日を中心に行われます。俗に「深川八幡祭り」とも呼ばれ、赤坂の日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭とともに「江戸三大祭」の一つに数えられています。3年に1度、八幡宮の御鳳輦が渡御を行う年は本祭りと呼ばれ、大小あわせて120数基の町神輿が担がれ、その内大神輿ばかり54基が勢揃いして連合渡御する様は「深川八幡祭り」ならではのものです。 また、富岡八幡宮には元禄時代に豪商として名を馳せた紀伊国屋文左衛門が奉納したとされる総金張りの宮神輿が3基ありました。しかし関東大震災で惜しくも焼失、それから68年の時を経て平成3年に日本―の黄金大神輿が奉納され宮神輿が復活しました。しかしながら、その大きさゆえに毎年担ぐことがかなわない為、新たに宮神輿を製作し、二の宮として平成9年の例大祭で華麗に渡御しました。 一の宮と二の宮の仕様は《御本社一の宮神輿》製作年:平成3年 作者:第十六代浅子周慶 型:屋根延金地塗神輿 台輪幅:5尺(1m51cm) 屋根幅:9尺5寸(2m89cm) 高さ:14尺5寸(4m39cm) 重量:約4.5トン 装飾:鳳凰の胸/ダイヤ7カラット 鳳凰の目/ダイヤ4カラット1対 鳳凰の鶏冠/ルビー2,010個 狛犬の目/ダイヤ3カラット2対 隅木の目/ダイヤ1カラット4対 小鳥の目/ダイヤ1カラット4対 屋根/純金24kg その他プラチナ、銀、宝石多数使用 《御本社二の宮神輿》製作年:平成9年 作者:第十六代浅子周慶 型:屋根延金地塗神輿 台輪幅:4尺5寸(1m36cm) 屋根幅:7尺5寸(2m27cm) 高さ:10尺8寸(3m27cm) 重量:約2トン  装飾:鳳凰の目/ダイヤ2.5カラット1対  深川のお祭りは「ワッショイ、ワッシヨイ」の伝統的な掛け声と「水掛け祭」の別名通り、沿道の観衆から担ぎ手に清めの水が浴びせられ、担ぎ手と観衆が一体となって盛り上がるのが特徴で、江戸の粋を今に伝えるお祭りとして、多くの人々によって大切に受け継がれています。












日付:2012年7月2日
場所:
【第126回東京ぶらり日記:村山貯水池(多摩湖)】村山貯水池は、通称「多摩湖」で呼ばれ、東大和市の狭山丘陵の渓谷に造られた(完成1927年)東京都水道局が管理する人造湖です。西に村山上貯水池と東に村山下貯水池に分かれていて、多摩川の水を羽村取水堰で取り入れ、導水管にて村山貯水池に導いて貯水しています。東京都内の他県にまたがらない湖の中では最大となっています。村山下第一取水塔は「日本で一番美しい取水塔」といわれ、よく晴れた日には富士山も眺めることが出来ます。堤体には散歩やジョギング、サイクリングする人が多く訪れます。下貯水池の東側は東京都立狭山自然公園で、雑木林の中に宅部(たっちゃん)池や太陽広場などがあります。園内にはソメイヨシノ、ヤマザクラ、サトザクラ等の桜が植えられており、宅部池周辺のイロハモミジ、ハナミズキは新緑の頃と秋の紅葉の美しさは格別です。園内には野鳥の森があり、オオタカが生息しています。多摩湖の道路を挟んだ周辺には、西武園遊園地、中国料理主体の割烹レストラン・旅館である掬水亭、埼玉西武ライオンズの本拠地の西武ドームが、多摩湖を周辺はサイクリングコース・遊歩道があります。道路に並行して「レオライナー「とよばれる新交通システムの西武山口線が、西武遊園地駅と西武球場前駅間を結んでいます。ここは、かつてユネスコ村駅まで結ぶ「おとぎ列車」という名称の軌間762mmの軽便鉄道で、1984年に新交通システムになるまでは蒸気機関車も運転されていました。西武球場前駅からかつてのユネスコ村駅までは廃線となり、跡地は途中の架道橋を含め現在一部がサイクリングコース・遊歩道となっています。かつてのユネスコ村は現在「ゆり園」となっています。












日付:2012年6月2日
場所:
【第125回東京ぶらり日記:サザエさんの街「波平さん植毛式と長谷川町子美術館」】人気漫画「サザエさん」一家の銅像が並ぶ東京都世田谷区の東急田園都市線桜新町駅前で、5月にたった1本しかない頭頂部の髪の毛を2回抜き取られた父親「波平さん」像の植毛式が桜新町商店街振興組合の主催で開かれました。長さ約10センチの水色に着色した高硬度ワイヤ製の毛1本が接着剤などで頭頂部のくぼみに取り付けられ、その近くに商店街は像を24時間監視する防犯カメラも設置されました。 植毛式には、地元で長年暮らす漫画家のやくみつるさんと歌手の水前寺清子さん、世田谷区長が参加。毛を差し込んだやくさんは「波平さんも次に抜かれたら怒ると思う。今回が永久植毛であってほしい」といたずらをしないよう呼び掛けた。 トレードマークが復活すると、見守った数十人の買い物客らからは歓声が上がりました。立会人の水前寺さんも「今後は静かに見守ってほしい」と笑顔で話していました。駅からサザエさん通りを歩いていくと長谷川町子美術館があります。この美術館は『サザエさん』の漫画作家として知られる長谷川町子(1920-1992)が、姉の毬子と共に蒐集した美術品を、広く社会に還元しようとの思いをもとに、昭和60年11月3日に長谷川美術館として開館いたしました。それらの蒐集作品は、作家名にこだわることなく、純粋に好きな作品を購入する方法で集められたもので、その種類は日本画・洋画・ガラス・陶芸・彫塑など多岐に渡ります。平成4年、長谷川町子没後は、館名を現在の長谷川町子美術館と改め、姉の毬子が館長としてその遺志を継ぎ、現在も美術品の蒐集展示を続けています。年に数回開催される収蔵コレクション展では、毎回テーマに沿った作品を、作家名やジャンルにとらわれることなく自由な発想で展示し、また、来館者の方々にも自由な感性でご覧いただけるように心がけています。町子コーナーでは、長谷川町子が描いた漫画作品、『サザエさん』をはじめとして、『いじわるばあさん』や『エプロンおばさん』『かつおくんとわかめちゃん』などの原画や、長谷川町子が手がけた陶芸や水彩などの作品や長谷川町子のスケッチブックも展示されています。また、毎年夏には全館をあげて「アニメサザエさん展」開催し、『サザエさん』の原画とアニメの世界を紹介しています。












日付:2012年5月1日
場所:
【第124回東京ぶらり日記:月島もんじゃ通り】 400m続く月島西仲通り商店街は、通称「月島もんじゃ通り」と呼ばれています。昭和29年(1954)に飲食店としてもんじゃ店を開いたのを筆頭に、10年に数軒の割合で増え始め、90年代はじめには情報誌等の影響で一大ブームが到来し、以後も大変な賑わいを見せています。戦前からの商店が次々ともんじゃ店に変わるなど、個性的な「もんじゃ屋」の世界が展開されています。月島西仲通りと直角に交わる小路。人と自転車しか通ることの出来ない細い道ですが、路地裏にももんじゃ店や生活密着の景観があり、忘れかけた昭和の景観が存在しています。もんじゃ焼の種類はさまざま。でも基本の焼き方は同じです。ちょっと慣れれば簡単です。また、できなくても店員さんが焼いてくれるので大丈夫。初めての方でも安心して月島にお越しください。月島のある中央区は、古くからの歴史があり、見所がいっぱいです。デートをしてからもんじゃ焼を食べるもよし、食べてからブラブラするもよし。もちろん、ご家族でのお出かけにもおすすめです。月島とその周辺を思いっきり、お楽しみください。












日付:2012年4月1日
場所:
【第123回東京ぶらり日記:踊り子草(オドリコソウ)】
高さは30〜50cmくらいになる。葉は対生し、その形は卵状3角形から広卵形で上部の葉は卵形で先がとがり、縁は粗い鋸歯状になり、基部は浅心形で葉柄がある。
花期は4〜6月で、唇形の白色またはピンク色の花を、数個輪生状態になって茎の上部の葉腋に数段につける。花のつき方が、笠をかぶった踊り子達が並んだ姿に似る。
[学名:Lamium album L. var. barbatum (Sieb. et Zucc.) Fr. et Sav.]
シソ科の多年草。茎は四角形で直立し高さ30〜50センチメートル、基部から細い走出枝を出す。葉は対生し、広卵形で長さ5〜10センチメートル、粗い鋸歯(きょし)があって先は長くとがり、基部は円心形。4月(山地では6月)ごろ葉腋(ようえき)に白色または淡紅色を帯びた花をつける。萼(がく)は5裂し、裂片は針状。花冠の筒部は上向き、基部はくびれ、内側には輪状に毛がある。上唇は冑(かぶと)形で縁に毛があり、下唇は前に突き出して広がり、小さい刺(とげ)状の側裂片がある。和名は、この花の姿を、笠(かさ)をかぶった踊り子に見立てたもの。これは春の草で、初夏には地上部が枯れてくる。俳諧(はいかい)で夏の季語としているのはふさわしくない。山野の道端ややぶ陰に群生し、日本、朝鮮、中国、樺太(からふと)(サハリン)に分布する。オドリコソウ属は世界に約40種あり、ユーラシア、アフリカに分布する。同属のマネキグサL. ambiguum (Makino) Ohwiは深山に生える。また帰化植物としてヒメオドリコソウL. purpureum L.がある。
[ 見分け方・特徴 ]

茎は四角形で根元から多数出て直立して高さ30〜50センチになる、柔らかい多年草
葉は、対生、柄があり卵形、先端は尖り、葉縁には粗い鋸歯があり、葉全体に毛がある
花は、淡赤紫色〜白色の唇形の花が数個、茎の周りに並んでつく
上部は帽子の形で、下部は三つにさける、花の蜜は甘い












日付:2012年3月1日
場所:
【第122回東京ぶらり日記:東京の野鳥@「カワセミ」】 カワセミは昔から清流に住む鳥・空飛ぶ宝石とも言われてきましたが、現代では都市整備、(山、野土地開発)等で汚れた池、生活河川に水、エサがあれば何処にでも来るようで決して清流の鳥ではないようです。今回は練馬区武蔵関公園富士見池で撮影しましたが、他では同区石神井公園、葛飾区水元公園、港区白金台国立自然教育園、町田市薬師池公園、鶴見川上流でも撮影しております。漢字では「翡翠」でヒスイをイメージ、又平安時代中期の小説『源氏物語」の一節・・・夏の日、久々に宇治を訪れた薫が障子の穴から覗き見ると、意中の人の姿がある。その髪は「翡翠だちて」たいそう美しい・・・「翡翠の羽のようだ」と形容している又平家物語や謡曲にも「翡翠の髪状」(かんぱせ)と使用され女性の美髪の形容にも、カワセミの見事な羽色は一目見た者を魅了し虜になります。朝、夕等、太陽光の向き、強さの違いで羽毛の色が多様に変化して見えます。又じっくり観察していると、嘴・眼・翼・尾羽・足まさに体全体の動きは時に笑わせる表情があり時の経つのを忘れさせます。採餌するときは水辺の石や枝の上から水中に飛び込んで、魚類や水生昆虫をくちばしでとらえる。ときには空中でホバリング(滞空飛行)しながら飛び込むこともあります。水中に潜るときは目からゴーグル状のものを出し水中でも的確に獲物を捕らえることが出来きます。また、水中に深く潜るときはいったん高く飛び上がってから潜るものもいます。捕獲後は再び石や枝に戻ってえものをくわえ直し、頭から呑みこみます。大きな獲物は足場に数回叩きつけ、殺してから呑みこみます。消化出来なかったものはペリットとして口から吐き出します。足場は特定の石や枝を使う事が多く、周囲が糞で白くなっていることが多いです。ゴーグル状のものは地上にいるときでも時々見ることが出来きます。繁殖期にはオスがメスへ獲物をプレゼントする「求愛給餌」がみられまする。つがいになると親鳥は垂直な土手に巣穴をつくります。最初は垂直の土手に向かって突撃し、足場ができた所でくちばしと足を使って50cm - 90cmほどもある横穴を掘ります。穴の一番奥はふくらんでおり、ここに3個 - 4個の卵を産みます。 卵からかえったヒナは親鳥から給餌をうけながら成長し、羽毛が生え揃うと巣立ちします。せまい巣穴の中は当然ヒナの糞で汚れますが、ヒナに生えてくる羽毛は鞘をかぶっており、巣立ちのときまで羽毛が汚れないようになっています。若鳥は胸の橙色と足に褐色味があります。非繁殖期は縄張り意識が強く、1羽で行動します。水上を飛んだり、えさ場が見渡せる枝や石の上で休む姿がみられます。












日付:2012年2月1日
場所:
【第121回東京ぶらり日記:市谷亀岡八幡宮】 市谷亀岡八幡宮(いちがやかめがおかはちまんぐう)は、東京都新宿区市谷八幡町にある神社。歌川広重・名所江戸百景に見る『市ヶ谷八幡』当神社は太田道灌が文明11年(1479年)、江戸城築城の際に西方の守護神として鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を祀ったのが始まりである。「鶴岡」に対して亀岡八幡宮と称した。当時は市谷御門の中(現在の千代田区内)にあった。しかし、その後戦火にさらされ荒廃していったが、江戸時代に入り寛永13年頃(1636年頃)に江戸城の外堀が出来たのを機に現在地に移転。 市谷亀岡八幡宮は三代将軍・徳川家光や桂昌院などの信仰を得て、神社が再興された。江戸時代には市谷八幡宮と称した。境内には茶屋や芝居小屋なども並び人々が行き交い、例祭は江戸市中でも華やかなものとして知られ、大いに賑わったという。その後明治に入り、神仏分離令により別当寺であった東円寺が廃寺となり(1872年)、芝居小屋などは撤退し樹木が植えられかつての賑わいはなくなっていった。その後、1945年に第二次世界大戦による戦火により神木なども含め焼失。1962年に現在の社殿が再建される。現在でも地域の人々などから信仰を得ている。境内には 茶ノ木稲荷神社、金刀比羅宮、出世稲荷神社がある。市谷亀岡八幡宮の祭神は誉田別命(応神天皇)、気長足姫尊、与登比売神。茶ノ木稲荷神社は、稲荷大神。●この神社はペットの神社として 犬や猫、兎、亀、ハムスターなどペットと一緒に初詣やペットの七五三、種々の祈願などをやっています。ぜひ一度足を運んでみてください。












日付:2012年1月1日
場所:
【第120回東京ぶらり日記:府中大國魂神社】 大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)は東京都府中市にある神社です。武蔵国の総社で六社を合祀しており、特に格式の高い「東京五社」の一つとなっています。2世紀初めの創建と伝えられる。関東三大奇祭の一つであるくらやみ祭りが有名であり、境内には結婚式場が建造されているなど、縁結びの神としても知られています。鉄道駅から近い市街地の中心部に位置するにもかかわらず、緑の杜に囲まれた神社です。境内には、本殿・拝殿・松尾神社・巽神社・東照宮・授与所・待合所・住吉神社・大鷲神社・神楽殿・宝物殿・中雀門・手水舎・廻廊・社務所・結婚式場・鼓楼・随神門・忠魂碑・日露戦役記念碑・相撲場・みやのめ神社・参道・大鳥居・稲荷神社・馬場大門のケヤキ並木・御旅所があり、多くの文化財が存在します。境内地は、かつての武蔵国の国府跡で、境内地と市道を挟んで東側の市有地が「武蔵国府跡(武蔵国衙跡地区)」として国の史跡に指定されています。東側市有地は「武蔵国衙跡地区」として整備されており、柱跡が表示され、展示室が設けられています。本神社は府中宿の中心部近くにあり、大鳥居から南の武蔵国分寺や武蔵国分尼寺まで道が整備されていた。(武蔵国を参照)六所宮 : 武蔵国の総社として、下記六社を合祀しています。なお、下記六社は創建当時の一之宮から六之宮までであり、武州六社明神と言われていました。創立の初期には創建日5月5日、武蔵国中の神官が集まり祈祷を行いました。[一之宮]小野神社 東京都多摩市一ノ宮一丁目・府中市住吉町 [二之宮] 二宮神社 東京都あきる野市二宮 [三之宮] 氷川神社 埼玉県さいたま市大宮区高鼻町四丁目 [四之宮]秩父神社 埼玉県秩父市番場町  [五之宮] 金鑚神社 埼玉県児玉郡神川町二ノ宮 [六之宮] 杉山神社 神奈川県横浜市緑区西八朔町宮前(異説あり)  東京五社 : 大國魂神社、東京大神宮、靖国神社、日枝神社、明治神宮 です。随神門には向かって左に豊磐間戸命(とよいわまどのみこと)を、右に櫛磐間戸命(くしいわまどのみこと)の像が納められている。












日付:2011年12月1日
場所:
【第119回東京ぶらり日記:こちら葛飾区亀有公園前派出所(こち亀)」 両津勘吉銅と仲間像】警視庁新葛飾警察署の亀有公園前派出所に勤務する中年の警察官である主人公の両津勘吉(りょうつ かんきち)巡査長と、その同僚や周辺の人物が繰り広げるギャグ漫画。お年寄りから小さい子供まで幅広く人気を博している。この作品の題名に関して、「長い題名をつけたら審査員が目を引くかなと思って。でも、いざやってみたらあんまり意味なかったですね」と、秋本治は語っている。また、『男はつらいよ』の山田洋次監督との対談の中で「『男はつらいよ』のおかげで葛飾区が全国的に広まっていましたから、亀有は知らなくても葛飾区はみんな知っているだろうと思ったんですね。それで長いタイトルになってしまった。」とも述べている。略称の『こち亀』は『下町奮戦記』の巻末に作者が「これからはこち亀と略してください」とコメントしたことで、公式の略称となった。ちなみに、ジャンプコミックスでは、18巻の巻末コメントで林家しん平が『こち亀』と呼んでいるのが最初。最初期には『派出所』と略されたことがある。葛飾区には柴又駅前に『男はつらいよ』の主人公『寅さん』の銅像があります。(第61回にて掲載済み)亀有商店組合では商店街活性化のために、人気者両さんとその仲間たちの銅像が2010年3月にできました。亀有駅を中心に北口へ南口へと点在するこち亀像11体。インターネトで「こち亀銅像ウォーキングマップ」がありますので、ぜひ行ってみてください。












日付:2011年11月1日
場所:
【第118回東京ぶらり日記:芝公園と東京タワー】 芝公園は日本で最も古い公園の一つ。明治6年の太政官布達によって、上野、浅草、深川、飛鳥山と共に芝の5カ所が、日本で最初の公園として指定され、以後の公園造成のさきがけとなりました。当初は増上寺の境内を含む広い公園でしたが、戦後の政教分離によって境内の部分が除かれ、環状の公園になりました。園内には、歴史の古い公園らしく、クスノキ、ケヤキ、イチョウなどの大木がところどころにあります。 また、現在、スポーツ施設として、野球場とテニスコートがありますが、芝公園は、明治35年に運動器具が備えられ、東京の公園における運動施設の始まりという歴史を持っています。伊能忠敬の測量の起点となったのが、芝公園近くの高輪の大木戸であった関係で東京地学協会がその功績を顕彰して遺功表が建てられました。 芝公園のとなりにあるのが東京タワーで東京のシンボル、観光名所として知られています。しかし本来の役割は総合電波塔をはじめ公共的な性格のものです。333mという高さは設計当時、関東エリア半径100km圏の電波をカバーし、耐風、耐火、耐震などの安全面を検討して決められました。電波塔以外の利用方法 高さを生かして、大気汚染等の調査のため東京都環境局の風向風速計、硫黄酸化物測定器などが高度別に取り付けられています。他にも大展望台2階には強震計が取り付けられています。東京タワーのランドマークライトは、180個の電球でライトアップされています。「ランドマークライト」には「冬バージョン」と「夏バージョン」の2パターンがあります。皆さんによく知られているオレンジ色のライトアップはいわゆる「冬バージョン」。1年12ヶ月のうち、約9ヶ月はこの冬バージョンが使われています。そして残り3ヶ月が夏バージョン。東京タワーのランドマークライトは「衣替え」をしているのです。夏の ランドマークライトは「メタルハライドランプ」と呼ばれるシルバーライトを使用し、白色を基調にすっきりと涼しげなイメージが特徴です。毎年7月7日七夕の夜から夏型ライトアップに変更します。冬の ランドマークライトは「高圧ナトリウムランプ」と呼ばれるオレンジ色のライトで冬の透き通った空気の中で、よりいっそう輝きを増します。毎年10月2日の夜から冬型ライトアップに変更します。












日付:2011年10月1日
場所:
【第117回東京ぶらり日記:江戸東京たてもの園】江戸東京たてもの園(えどとうきょうたてものえん Edo-Tokyo Open Air Architectural Museum)は、失われてゆく江戸・東京の歴史的な建物を移築保存し展示する目的で東京都小金井市の都立小金井公園内に設置された野外博物館。東京都墨田区にある東京都江戸東京博物館の分館であり、財団法人東京都歴史文化財団が運営管理に当たっている。小金井公園には1954年から1991年まで、古代住居や江戸時代の農家を移築・展示する武蔵野郷土館があったが、江戸東京博物館の開館に合わせて、武蔵野郷土館を拡充する形で1993年(平成5年)3月に開園した。高い文化的価値がありながら現地保存が困難となった江戸時代から昭和初期までの27棟の建造物を移築復元し展示している。2011年9月3日に万徳旅館と大和屋本店(土井邸)が、2012年以降にゲオルグ・デ・ラランデ邸が完成し、開園当初の予定だった30棟の移築復元が完成する予定である。宮崎駿監督の映画『千と千尋の神隠し』(2001年)の作画には、たてもの園の銭湯や下町の商家建築のデザインが参考にされた。この縁で2002年には園内で「千と千尋の神隠し展」と映画「千と千尋の神隠し」の屋外上映会が開催された。シンボルキャラクターの「えどまる」は宮崎駿のデザインである。












日付:2011年9月1日
場所:
【第116回東京ぶらり日記:東村山中央公園】東村山中央公園は、武蔵野の自然が色濃く残るなか、この緑の保全と再生をめざして整備されました。公園は東側と西側に樹林地区を配し、中央部に広大な原っぱを設け自然を味わう空間となっている。西地区の樹林は公園を作る前からの武蔵野の雑木林で、もともと野生動物がすみ、野鳥も多くみられる樹林でした。そこで公園をつくるのに際し、野鳥の聖域(バードサンクチュアリ)となりました。その外側には小鳥が水浴びするための流れ「小鳥のせせらぎ」が設けられ、その脇を散歩道となっている。施設として樹林のとなりにゲートボール場、じゃぶじゃぶ池などがあります。東側の樹林地区は手入れをされた樹林の中を散歩し、森林浴ができるようになっている。施設として東屋や資料館・喫茶室があり、ゆったりと自然を楽しむことができる。 また、この公園は狭山・境緑道に隣接しており、サイクリングロードのオアシスになっています。












日付:2011年8月1日
場所:
【第115回東京ぶらり日記:夏スペシャル(高原へ行こう:尾瀬A)】夏の尾瀬は花がいっぱいです。青い空、白い雲、緑豊かな高原に流れるさわやかな風、あちこちに点在する池塘やお花畑、ユリ科やアヤメ科の花々、一面に広がるはニッコウキスゲの群生など、都会の蒸し暑さとストレスを忘れる一時です。交通のアクセスは昔に比べ大分良くなりました。“その気”さえあれば、別天地はすぐそこにあります。詳細は【第101回東京ぶらり日記:春スペシャル(高原へ行こう:尾瀬@ 水芭蕉散歩)】をご覧ください。












日付:2011年7月1日
場所:
【第114回東京ぶらり日記:哲学の庭】「哲学の庭」とはワグナー・ナンドール氏が1994年に完成させた3組24体からなるブロンズ像です。1組はハンガリー・ブタペスト市『ゲルトの丘』に、2組は栃木県益子町『ワグナー・ナンドールアートギャラリー』に建立されていました。今回、益子町の1組が哲学堂公園に寄贈されました。彫刻は3つの輪で構成されており、第一の輪 「アブラハム」「エクナトン」「キリスト」「釈迦」「老子」第二の輪 「達磨大師」「ガンジー」「聖フランシス」第三の輪 「聖徳太子」「ユスティニアヌス」「ハムラビ」の計11体です。 ハンガリー出身の哲学者で彫刻家、ワグナー・ナンドール(1922〜97年)のブロンズ作品「哲学の庭」が東京都中野区に寄贈され、昨年12月に哲学堂公園(同区松が丘)に設置されました。昨年が日本とハンガリーの外交開設140周年、国交回復50周年にあたり、記念事業の一環として実現しました。 同区によると、ワグナーは昭和41年に日本人の和久奈(旧姓秋山)ちよさんと結婚。44年に日本に移住するため来日し、50年に帰化。栃木県益子町を拠点に創作活動を続けた。「哲学の庭」は制作年数50年といわれるワグナーのライフワーク的作品。水盤の中心部にある玉を見つめるアブラハム、エクナトン、キリスト、釈迦、老子のブロンズ像5体がおり、そばに3体ずつ計6体の偉人の像が立つ。原型から3セット作られ、2セットは益子町のワグナー・ナンドールアートギャラリーに、もう1セットは故郷のハンガリーに設置されています。 今回の寄贈は、ちよさんが東洋大学の創立者で、哲学堂公園を開設した哲学者、井上円了(1858〜1919年)とワグナーの哲学観につながりがあるとして、哲学堂公園への設置を要望。中野区が申し出を受け、哲学堂公園の一部約150平方メートルを整備し、水盤を囲む5体と聖フランシス、達磨大師、ガンジーの3体の計8体を受け入れることになりました。












日付:2011年6月1日
場所:
【第113回東京ぶらり日記:哲学堂公園】四聖堂(哲学堂)哲学堂公園(てつがくどうこうえん)は、東京都中野区にある中野区立の公園です。東洋大学の創設者である哲学者の井上円了が、ソクラテス、カント、孔子、釈迦を祀った「四聖堂」を建設したのが、この公園のはじまりです。この四聖堂は当初哲学堂とも呼ばれていたが、それがそのまま公園の名になりました。当初は当地に大学を造る案もありましたが、精神修養のための公園にすることになり、1909年-1912年の間に哲理門、六賢台、三学亭などの建築物が逐次整備された。当時の建築物は現在も公園内に現存しており、普段は外観しか見られないが、毎年4月と10月には、建築物の内部も一般に公開されます。内部には、哲学者の像が祀られている。この他にも園内には到る所に哲学に由来するユニークな名前の坂や橋などが点在し、井上円了の思想を垣間見ることができます。このうち主要な施設は次のとおりです。●時空岡(じくうこう) - 哲学の時空間を表した場所。●四聖堂(哲学堂) - 東洋の釈迦と孔子、西洋のソクラテスとカントの四聖人が祀られている。公園の中心的な建物といえる。●六賢台 - 日本の聖徳太子、菅原道真、中国の荘子、朱子、インドの龍樹、迦毘羅[1]の東洋の六人の哲人が祀られている。●哲理門 - 哲学堂の正門にあたる。天狗と幽霊が傍らにあり、天狗は物質界、幽霊は精神界の象徴であるという。●三学亭 - 日本の古来からの神学、儒学、仏教学の各碵学、平田篤胤、林羅山、釈凝然を奉崇している。●三祖苑 - 思想史の始祖ともいえる、中国の黄帝、インドの足目仙人[2]、ギリシアのタレスの各人を刻んだ石碑がまつられている。●絶対城 - 当地における図書館のこと。絶対的な真理に到達せんと欲するならば、万巻の書物を読み尽くすことであるという教えから、絶対城と命名された。現在は、建物が遺構として残っているだけで、図書館としての機能はない。●宇宙館 - 当地における講義室。哲学は、宇宙における真理を追究する学問であるから、この名になった。緑豊かな公園です。一度足を運んでみてください












日付:2011年5月1日
場所:
【第112回東京ぶらり日記:東京スカイツリータウン最近の状況】3月18日13時34分 東京スカイツリーは最高の高さ634mに到達しました。そこで今回はいくつかのポイントからの画像を紹介しますのでお楽しみください。 周辺施設の建設も急ピッチに進められ、少しずつ外観がみえてまいりました。 東京スカイツリーの完成予定は今年12月で、最寄り駅の東武伊勢崎線業平橋駅は来春(2012年)“とうきょうスカイツリー駅”に改称されます。 この東京スカイツリー駅と、東武伊勢崎線、京成押上線、東京メトロ半蔵門線、都営地下鉄浅草線の押上駅に直結し、両駅を囲むエリア(東西長さ約400m)には、東京スカイツリータウン(複合施設)が誕生する。そこは、商業施設(ショッピングセンター)、プラネタリウム(ドームシアター)、水族館、オフィス、教育関連施設、電波塔、展望施設などから構成され、2012年春に街開きの予定です。  東京スカイツリータウンを構成する主な施設は、 @東京ソラマチ(商業施設)東武鉄道全額出資による管理会社東武タウンソラマチ株式会社が運営。延床面積約52,000u、約300店舗  A東京スカイツリーイーストタワー(オフィス・教育関連施設)貸室面積約25,300u、地上31階の高層棟  Bコニカミノルタプラネタリウム“天空”in東京スカイツリータウン 多機能型ドームシアター  C墨田水族館(仮称) D東京スカイツリー(電波塔)高さ634m、電波塔としては高さ世界一となる。高さ350mと高さ450m地点に展望台が設置される。 東京スカイツリータウンは敷地面積が約3万7000平方メートルで、 開業初年度には、約2500万人が訪れると見込まれている。 ※なお詳細および確認は、各公式サイトをご覧ください。 ●TOKYO SKY TREE TOWN - 「東京スカイツリータウン」 ●TOKYO Solamachi - 「東京ソラマチ」 ●TOKYO SKY TREE - 「東京スカイツリー」 ●コニカミノルタプラネタリウム“天空”in 東京スカイツリータウン














日付:2011年4月1日
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【第111回東京ぶらり日記:「ソメイヨシノ桜発祥地の散歩」】ソメイヨシノ発祥の地といわれる場所は、現在の東京都豊島区駒込6、7丁目周辺に当たります。昔はこの周辺を染井村といいました。江戸時代、大名や豪商の屋敷の近所には農家から転じた植木屋が発生しましたが、染井村もそうした場所の一つで、江戸中期から明治にかけて植木屋が多かったそうです。駒込駅近くの六義園や、染井の藤堂家下屋敷などが染井の植木屋の商売を支えていたそうです。その植木屋の中の一軒 植木屋伊藤伊兵衛が、江戸末期にオオシマザクラ(大島桜)とエドヒガン(江戸彼岸桜)を交配してつくり、「吉野桜」としてを売り出したと言われています。明治に入って、「吉野桜」という名前のままだと本家吉野のヤマザクラとまぎらわしいということで、改めて「ソメイヨシノ(染井吉野)」と命名されました。ソメイヨシノはオオシマザクラとエドヒガンザクラの雑種であるために子孫を残す能力がない品種。 花が咲いた後に種子を作ることすらまれだと云うことです。 そういえばあれだけ咲いているのにソメイヨシノの果実、サクランボは見たことがないですね。 ではソメイヨシノはどのようにして増えているのか?答えは簡単。 人間が接ぎ木をすることで増やしています。 ソメイヨシノは自然交配によって偶然できたと云うのが定説。これを見つけた江戸の植木屋が「吉野」の名前で売り出したのが始まりだと云われています。 このころから接ぎ木の技術が使われ増やされていました。 つまりソメイヨシノの起源は偶然に生まれた1本の雑種なんです。ということは、全て同じ樹だと云うことです。 これがソメイヨシノはクローンだという意味ですね。 いわゆるクローンというイメージとは違いますが、「クローン=人工的に作られた同じ遺伝子セットを持った個体」だと定義すれば立派なクローンと呼べます。それゆえ、青森で見るソメイヨシノも、沖縄で見るソメイヨシノも同じ個体だといえるわけです。 このことが「桜前線」という独特の予報を成立させているひとつの大きな要因になっています。 全てのソメイヨシノに個体差=個性がありませんから、日本の季節の変化がそのまま桜の開花に繋がるわけです。 ソメイヨシノの花芽は冬に最高気温が7度以下の低温の日が一定期間続くと花芽が休眠から覚め、つぼみが成長を始めるそうです。 もちろんクローンじゃなくても同じ条件で開花する植物は多くあるでしょうが、ソメイヨシノはこの性質が全く同じであると考えられるわけです。もし、ソメイヨシノに個性があるなら、顕著ではなくてもばらつきが生じると考えられます。 桜前線というコトバは、日本人にとって桜が特別なものであることだけではなく、ソメイヨシノが全て同じ個体だという背景があって成り立っているものなんです。












日付:2011年3月1日
場所:
【第110回東京ぶらり日記:「文学碑のある本郷界隈」】明治から昭和初期の家並みが残る東京大学付近を文学碑や絵画を眺めながら歩いてみた。今回のルートは、都営大江戸線本郷三丁目駅から白山通り方面へ歩き、真砂坂上の信号を右折し、炭団坂−菊坂と下り、胸突き坂を上り、本郷通りの本郷郵便局前に出て右へ赤門まで行き、少し引き返して本郷通りから言問通りに入る。途中から弥生門の方へ行き、不忍通りに出る。そこで右へ曲り、そのまま歩いて東京メトロ千代田線湯島駅で帰路についた。ポイントは、真砂坂上の信号を右折するとまもなく左手に文京ふるさと歴史館がある。ここは江戸・明治時代の町と教育・学問の地となった文京区を紹介している。炭団坂の手前には坪内逍遙旧居跡があり、坂を下りた最初の角の右手には宮沢賢治旧居跡がある。住居表示「本郷4丁目32」と「同31」の間の石畳の路地を入ると樋口一葉旧居跡がある。郵便局の角から胸突き坂を上ると旅館・鳳明館が右手にある。本館は有形文化財に登録されている。突き当たりを左へ、すぐ右に折れ、最初の小道を左へ行くと徳田秋声旧居跡(写真@)がある。本郷郵便局を右に行くと法真寺[一葉会館](写真A)。赤門から本郷通りを駒込方面へ行き、言問通りに入って弥生門まで来ると正面に立原道造記念館(写真B)があり、原稿とともに手製の詩集、パステル画、建築設計図、書簡等を展示している。その先には弥生美術館・竹久夢二美術館(写真C)がある。弥生美術館には高畠華宵を中心に、夢二美術館では肉筆画やデッサン、版画など多数展示されている。不忍通りに出ると渡らずに右へ行くと数寄屋造風の日本住宅の雰囲気を生かした横山大観記念館(写真D)に着く。ここは近代日本画界の指導者で多くの傑作を残した大観の旧居。和室に作品や画稿、スケッチ帳が展示されている。ここを出て通りの反対側には、不忍池を手前に高さ600メートルになったばかりの東京スカイツリーが壮大な姿を現している。












日付:2011年2月1日
場所:
【第109回東京ぶらり日記:「京王百草園(けいおうもぐさえん」】 ロウバイとニホンスイセンが見頃になり、早咲きの梅・八重寒紅、寒咲アヤメなど早春を彩る花が咲き始めました。 現在も豊かな自然を残す多摩丘陵。その一角に佇むのが、百草園です。素晴らしい眺望が楽しめる園内には松連庵、三檪庵をはじめ若山牧水の歌碑、松尾芭蕉句碑などが四季の草木に彩られ、訪れる人を飽きさせません。さらに、2月〜3月に咲く約800本の梅は見事で、梅の名所としても親しまれています。 松連庵売店では、散策した身体をあたためる甘酒、よもぎそばを用意しています。賞味するのもよろしいかと思います。 江戸時代の亨保年間(1716年〜)、小田原城主大久保候の室、寿昌院殿慈岳元長尼が徳川家康の長男・岡崎三郎信康追悼のために松連寺を再建し、それに伴ってつくられた庭園が百草園です。また、園内の有名な寿昌梅は寿昌院殿慈岳元長尼がこの時自ら植樹したと伝えられています。明治初期に廃寺となり、地元出身の生糸商人が所有し、昭和32年に京王電鉄に移管され、現在に至っています。 天平の昔に栄えたという松連寺の跡に佇む松連庵(しょうれんあん)。自然の中に優しく溶け込む茅葺きの屋根、懐かしい日本の風景が、訪れる人をあたたかく迎えます。 茶室「三檪庵」(さんれきあん) は秋田杉の無垢材がふんだんに使用されている、本格的な茶室。旧京王百花苑より移築されました。 江戸時代の文化、文政の頃(1804〜29)の頃は、多くの文人、茶人などがこの地で句会や茶会を開きました。明治には、この地で若山牧水が恋人の小枝子との失恋を歌にし、歌集「独り歌へる」をつくりました。この地にも、北村透谷、徳富蘆花などの文人たちが訪れています。














日付:2011年1月1日
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【第108回東京ぶらり日記:「明治神宮」】
 1912年(明治45年)に明治天皇が崩御し、立憲君主国家としては初の君主の大葬であったがその死に関する法律はなく、何らかの記念(紀念とも)するための行事が計画される。その事業は程なく予定されていた明治天皇即位50周年のものを引き継ぎ、続いて、1914年(大正3年)に皇后であった昭憲皇太后が崩御すると、明治天皇と昭憲皇太后の遺徳を偲ぶ国民から2人をまつる神社を求める機運が高まり、大正天皇の裁可を受けて、1915年(大正4年)5月1日、官幣大社明治神宮を創建することが内務省告示で発表された。明治天皇が「うつせみの代々木の里はしづかにて都のほかのここちこそすれ」と詠んだ代々木の南豊島世伝御料地を境内地として造営が行われた。1920年(大正9年)11月1日に鎮座祭が行われた。ちなみに、この御料地はかつて近江彦根藩井伊家の下屋敷のあった場所で、明治維新後に井伊家から政府に対して献上されたものである。明治神宮外苑(一般には「神宮外苑」として知られる)は、「明治天皇・昭憲皇太后のご遺徳を永く後世に伝えるため、民間有志により結成された明治神宮奉賛会が、広く国民より募った寄付と全国青年団の勤労奉仕によって」造営された。聖徳記念絵画館を中心に、明治神宮外苑競技場(現在の国立霞ヶ丘陸上競技場)・明治神宮野球場・明治神宮水泳場などがある。境内 は内苑と外苑に分かれており、内苑には日本各地や朝鮮半島・台湾からの献木365種約12万本が計画的に植えられた。1970年(昭和45年)の調査時には247種17万本となっており、都心部の貴重な緑地として親しまれているだけでなく、人工林が意図的に自然林化されたものとしても注目されている。明治神宮を設営する場所として選ばれた代々木御料地付近は、元々は森がない荒地であった。そのため、神社設営のために人工林を作ることが必要となり、造園に関する一流の学者らが集められた。明治神宮造営局の技師らは1921年(大正10年)に「明治神宮御境内 林苑計画」を作成。現在の生態学でいう植生遷移(サクセッション)という概念がこのとき構想され、林苑計画に応用された。当初、多様な樹種を多層に植栽することで、年月を経て、およそ100年後には広葉樹を中心とした極相林(クライマックス)に到達するという、手入れや施肥など皆無で永遠の森が形成されることを科学的に予測され実行された。いわば、これが造園科学的な植栽計画の嚆矢であって日本における近代造園学の創始とされている。なお、植林事業そのものは1915年(大正4年)には開始されている。












日付:2010年12月1日
場所:
【第107回東京ぶらり日記:「泉岳寺と赤穂義士墓」】
泉岳寺は、曹洞宗の寺院で慶長17年(1612年)に徳川家康が外桜田に門庵宗関を招いて創建。寛永18年(1641年)寛永の大火で焼失したが、徳川家光の命で、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷・今川の6大名により、現在の高輪の地で再建されました。地下鉄泉岳寺駅改札を出た構内に赤穂義士47士の名前を記した木片が掲示されています。山門をくぐり義士の墓に向かうと、右側に赤穂市が寄贈した水琴窟「義士への鎮魂」が置かれています。その隣には田村邸内浅野公自刃の場にあった「血染め石」と「血染めの梅」、浅野長矩公の後室瑶泉院堀部妙海尼より賜れた「瑶池梅」、吉良上野介義央の首を洗った「首洗井戸」と並んでいます。赤穂浪士(あこうろうし)は、元禄15年12月14日(1703年1月30日)深夜に旧主浅野長矩の仇である高家吉良義央の屋敷に討ち入り、吉良義央および家人を殺害した(元禄赤穂事件)元赤穂藩士大石良雄以下47人の武士である。赤穂浪士が葬られた泉岳寺では現在も毎年討ち入りの日に義士祭を催している(討ち入りの日は旧暦12月14日深夜であるが、義士祭は新暦12月14日に行われる)。また境内に、赤穂浪士ゆかりの品を所蔵している「赤穂義士記念館」がある。 この事件は元禄という頽廃的な時代に仇討ちという義理人情的な事件が起こったことに関して庶民は熱狂的に支援します。すぐに浄瑠璃や歌舞伎などの題材に取り上げられ、とくに歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』によってすぐれた物語に仕上げられていきます。300年近く経過した現在でもなお、繰り返し映画やテレビドラマ の題材になっており、義士たちの墓嶺がある泉岳寺は、全国的な観光名所となっています。話は変わりますが、泉岳寺の赤穂浪士の墓の数が48あるのをご存じですか?。四十七士なので、墓の数も47のはずなのですが、討ち入り後に行方不明になった寺坂吉右衛門を除けば墓の数は46のが正解です。実は、その寺坂吉右衛門の墓がちがった戒名で2つ加わって、計48になっているのです。寺坂吉右衛門については逃亡説、密使説など諸説がありますが、彼は晩年、麻布曹渓寺の寺男になって、83歳の天寿をまっとうしたそうです。












日付:2010年11月1日
場所:
【第106回東京ぶらり日記:「黄昏の深大寺」】
深大寺(じんだいじ)は、東京都調布市深大寺元町五丁目にある天台宗別格本山の仏教寺院である。山号は浮岳山。 浅草・浅草寺に次ぐ都内第二の古刹である。 武蔵野の山野の中、国分寺崖線の斜面に抱かれる形で、ゆたかな泉の湧く場所に建てられた寺院である。 隣接する東京都立神代植物公園は旧寺領であった。「深大寺」の名称は、仏法を求めて天竺(インド)を旅した中国僧玄奘三蔵を守護したとされる神「深沙大王」(じんじゃだいおう)にちなむと伝える。天平5年(733年)満功上人が法相宗の寺院として開創したと伝える。859年、天台宗に改宗する。1646年と1865年に火災にあっており、堂宇の大半を失っている。現在の本堂は大正年間の再建である。本尊は本堂に安置の阿弥陀三尊像。関東では浅草の浅草寺に次ぐ古刹である。 元三大師堂山門前は門前町の雰囲気で、名物「深大寺そば」の店や土産物店が軒を並べる。寺院参詣とともに、門前町の趣きを味わうために訪れる人も多い。2003年には、市内在住の漫画家・水木しげるにちなむ「鬼太郎茶屋」がオープンしている。[深大寺そば] 江戸時代、深大寺周辺の土地が、米の生産に向かないため、小作人はそばをつくり、米の代わりにそば粉を寺に納め、寺ではそばを打って来客をもてなしたのが、深大寺そばの始まりと伝えられています。 深大寺そばが有名になったのは、深大寺の総本山である上野寛永寺の門主第五世公弁法親王が、深大寺そばを大変気に入り、まわりの人々をはじめ全国の諸大名にも深大寺そばのおいしさを言い広めたからのようです。 そのため、深大寺そばの名が高まり、多くの家から深大寺へそばの使者が立つほどになりましたので、深大寺そばは「献上そばとも」言われています。
また、別の説では、徳川第三代将軍家光が、鷹狩りの際に深大寺に立ち寄って、そばを食べほめたからだとも言われています。












日付:2010年10月1日
場所:
【第105回東京ぶらり日記:「奥多摩湖」】奥多摩湖は 1957年(昭和32年)多摩川を小河内ダム(おごうちダム)によって堰き止めて造られた。竣工当時、水道専用貯水池としては世界最大規模の貯水池であった。現在も水道専用貯水池としては日本最大級を誇る。現在、東京都の水源は利根川水系を主としているが、渇水時の水瓶として極めて重要な役割を担っている。また、東京都交通局の発電施設(多摩川第一発電所)も併設されており、発電された電気は東京電力へ売却され、奥多摩町・青梅市などの多摩地区に電力を供給している。  奥多摩湖は、東京都の貴重な水源で、総貯水量1億8000万トン、都民の利用する水の約2割を供給しています。木々や周囲の山稜を映す湖面は静寂に満ち、桜、新緑、紅葉、また冬と四季を鮮やかに演出します。 湖畔には様々な見どころ・観光施設があり、首都圏のオアシスとして親しまれています。● 奥多摩湖の浮橋 :奥多摩湖には、浮橋が2つ架けられています。通称ドラム缶橋と呼ばれるこの橋は、ドラム缶状の樹脂と金属の素材が用いられております。昔はドラム缶を利用していました。この橋は、歩行者専用で青梅街道と奥多摩周遊道路を結んでいます。※渇水時には取り外すことがあります。 ● 山のふるさと村 :奥多摩湖南岸に面した「山のふるさと村」は、自然の親しみ、関心を深めることを目的にした自然公園施設です。園内には、宿泊施設、キャンプ場、バーベキュー施設が完備され、また、クラフトセンターでは、陶芸・木工・石細工・自然食教室など、色々な体験を楽しむことができます。○問い合わせ:0428-86-2551 ●水と緑のふれあい館 :湖畔の小河内ダムサイドに建つ「水と緑のふれあい館」は、郷土の歴史・文化、都民の水源地である奥多摩の豊かな自然や、ダムの仕組み、水の大切さなど、3Dシアターやビデオなどで、どなたにもわかりやすく紹介しています。○問い合わせ:0428-86-2731 ※毎週水曜日休館












日付:2010年9月1日
場所:
【第104回東京ぶらり日記:「夏スペシャル(山へ行こう):北アルプス〜涸沢登山道〜」】涸沢(からさわ)は、長野県松本市安曇にある日本有数の氷河圏谷である。源は穂高岳の主峰、奥穂高岳であり、南側は標高3,000mの稜線である奥穂高岳と前穂高岳を結ぶ吊り尾根が屏風のように視界を遮っている。西にはザイテングラード(ドイツ語:Seitengrat)と呼ばれる支稜の先に穂高岳山荘のある白出のコルが望め、奥穂高より涸沢岳、北穂高岳へと続く穂高連峰の主稜線が連なっている。東側は前穂高岳の北尾根の峰々が並んでおり、その先端は、標高差1,000mの絶壁屏風岩のピークである屏風の頭である。北側は、北穂高岳の登山路のある南稜とゴジラの背と呼ばれる東稜が伸びている。涸沢の雪解け水は、涸沢出合で横尾本谷と合流し、屏風岩の北側を横尾谷となって流れ、横尾で槍沢の水と合して梓川となり、上高地へと流れ下っている。涸沢は、穂高登山の中心地であり、夏には色とりどりのテントが数え切れない程ならぶテント場を見ることができる。また、南側を吊り尾根、東側を北尾根と、標高の高い稜線に遮られた北向きの沢であるため、夏場でも残雪が多く残るので、夏スキーのゲレンデとしても賑わいを見せる。また、近年は紅葉の名所としても有名であり、三段紅葉とも呼ばれる岩場と木々のコントラストが見られるため、見頃の季節には全国からおびただしい人数の登山者が訪れる。












日付:2010年8月1日
場所:
【第103回東京ぶらり日記:座間「ひまわり広場」】首都圏随一の規模55万本。 座間市の花として市民の皆さんに親しまれている「ヒマワリ」。「かながわ花の名所100選」にも選ばれている座間の「ひまわり広場」は、すっかり座間の夏の風物詩として定着し、毎年市内外から多くの人が訪れます。 「市ひまわり推進協議会」が遊休農地を利用してヒマワリを育成する「ひまわり広場」では、満開のヒマワリを皆さんに楽しんでいただこうと、同協議会会員が中心となって、耕運、種まき、ネット張り、除草など、丹精込めて手入れをしてきました。その甲斐あって、ひまわり広場には高さが約 1.5メートルの「サンライト2」という品種のヒマワリが一面に咲き、その様子は、まるで黄金のジュウタンを敷き詰めたかのように見えます。ヒマワリは、種をまく時期をずらすことで、開花時期をずらすことができます。このことで、各広場での開花時期を調整し、夏の間ずっと満開のヒマワリが、いずれかの地区の広場で楽しめるように工夫しています。週末には、座架依橋南側のひまわり広場で「ひまわり祭」が開催され、会場では一面に咲くヒマワリが楽しめるとともに、地元の農産物やヒマワリの種で作った 本格焼酎ひまわり焼酎の販売などが行われます。
 ヒマワリに囲まれての記念撮影や広場内の散策など楽しみ方もいろいろです。皆さんも、どうぞ夏の思い出づくりに座間の「ひまわり畑」で家族や友人などを誘ってお出掛けください。 ■ひまわりまつり 〜ようこそ 太陽とひまわりの協演〜  ★栗原地区ひまわり畑:平成22年7月31日(土)予備日8月1日(日) ★座間地区ひまわり畑:平成22年8月21・22日(土・日)■第10回 座間ひまわり写真コンテスト/座間市内の「ひまわり畑」の魅力を作品に ●平成22年8月17日(火)〜9月7日(火) ■問い合わせ先 座間市農政課 TEL046(252)7601 FAX046(255)3550 http://www.zama-kankou.jp/index.html?page=36366












日付:2010年7月1日
場所:
【第102回東京ぶらり日記:目白庭園】 目白庭園は、豊島区の都市化、国際化が進む中で、自然に接し、伝統文化を育む場として活用していただくために、平成2年11月に、わが国の伝統的な技と匠を結集して建設されました。 この庭園は、限られた空間に日本人の自然に対する思想を凝縮した日本庭園で、園内の中央に大きな池をつくり、水ぎわに石垣を築いてその上に「赤鳥庵」を配しています。 「赤鳥庵」は、京都の北山杉を用いた木造瓦葺き平屋建ての数奇屋建築で、水面にその優雅な姿を映しています。 園路は回遊式で、池の周囲をめぐりながら随所に自然の造形美に出会えます。水辺に近い飛び石からの眺めや滝見台からの眺めは景観を一変させ、同じ庭園とは思えない変化を楽しませてくれます。 大都会の喧騒を離れ、日本の伝統文化と自然のさまざまな表情を心ゆくまでお楽しみください。












日付:2010年6月1日
場所:
【第101回東京ぶらり日記:春スペシャル(高原へ行こう:尾瀬@ 水芭蕉散歩)】 今回は水芭蕉との散歩です。 尾瀬は新潟県、福島県、群馬県、栃木県にまたがる尾瀬国立公園です。自然公園の中でも「特別地域」「特別保護地区」に指定されている場所もあり、「特別天然記念物」にも指定され、大変貴重な自然が残っています。まだ肌寒い尾瀬は、雪どけと同時に咲きだす水芭蕉が迎えてくれます。都会の雑踏からこの地に入ると身も心も洗われます。水芭蕉の群生地は多数あり、清流に沿って咲くものや、水中花として、お花畑として、また木道の脇を飾るものや、湿原の中を点在するものなど様々です。このサイトをご覧の皆さんも一度足を運んでみてください。尾瀬へのアクセスとして、入り口は3ヶ所あります。上越線沼田駅の沼田口、同じく上越線小出駅の越後口、野岩鉄道会津鬼怒川線会津高原駅の尾瀬口です。沼田口は首都圏から入りやすくメインゲートになっています。越後口は乗り換えなどしながら旅を楽しめますし、尾瀬口は御池からのシャトルバスを利用できるので、1時間ほどで尾瀬沼にでることができます。 先に述べたように、ここは何重にも保護し、大変貴重な自然を守っています。 独自の地形と気候によって培われた動植物も息づいています。一度壊してしまうとなかなか本来の姿にはもどりません。すばらしい景色にふれ、貴重な自然を後世に伝えていく義務も負っています。ルールを守り、自然や生物にふれながら、素敵な時間を過ごしていただけることをおすすめします。
















日付:2010年5月1日
場所:
【第100回東京ぶらり日記:東京スカイツリー】階数:地上31階、地下3階(オフィス棟) 高さ:634m(電波塔)、約160m(オフィス棟) 敷地面積:36,844.41m2(施設全体) 建築面積:31,507.42m2(施設全体) 延べ面積:229,812.47m2(施設全体) 東京スカイツリー(とうきょうスカイツリー、Tokyo Sky Tree)は東京都墨田区押上に建設中の電波塔である。着工当初は高さを610.58mとする計画であったが2009年10月16日に高さが634mとなるように計画を変更したため、完成すれば自立式電波塔としては世界一の高さとなる。2008年7月14日に着工し、2011年12月から遅くても2012年早春に竣工の予定。 2003年12月にNHKと在京民放キー局5社が600m級の新しい電波塔を求めて、「在京6社新タワー推進プロジェクト」を発足したのがきっかけである。2006年3月に建設地が決定した。 東京スカイツリーの建設目的は東京都心部に建てられている超高層ビルの増加に伴う東京タワーから放送の電波障害を低減することにあり、地上デジタル放送のために建設計画が持ち上がったわけではない。建設計画案の期間中でも地上デジタル放送が次第に普及し、ワンセグ放送の開始も控えていた。2011年7月24日には地上アナログテレビ放送が終了となるため地上デジタル放送用の電波塔となる。2011年7月24日をもって地上アナログテレビ放送が終了するのに備え2008年7月14日に着工された。竣工予定は2011年12月、試験放送などを経て開業は2012年春の予定。[デザイン]工事中に掲示する「Rising East Projectからのお知らせ ・業平橋押上地区開発事業(新タワー計画)」。公道歩道に面して東武鉄道本社ビルに掲示。2009年9月19日撮影2006年11月24日にデザインが公表された。以下の3つのコンセプトに基づき、デザインされている。●時空を超えた都市景観の創造:日本の伝統美と近未来的デザインの融合 ●まちの活性化への起爆剤:賑わいと親しみを感じる3つのゲートと2つの展望台 ●都市防災「安全と安心」への貢献:日本古来の建築「五重塔」に通じる新たな構造システム −−−五重の塔を参考にして、心柱(鉄筋コンクリート造の高さ375m直径約8mの円筒で内部は階段)により地震などによる揺れを抑える心柱制震構造となっている。タワーの水平方向の断面は地面真上では正三角形であるが、高くなるほど丸みをおびた三角形となり地上約320mで円となる。概観は「起り」(むくり)や日本刀の緩やかな「反り」(そり)の曲線を生かした日本の伝統建築の発想を駆使し、反りの美的要素も盛り込まれている。2009年2月26日にカラーデザインが公表され、「スカイツリーホワイト」と決定された。これは日本伝統の「藍白」(あいじろ)をベースにした独自の命名のオリジナルカラーで、青みがかった白である。なおエレベーターシャフトはグレー、展望台はメタリック色、頂部は鮮やかな白である。2009年10月16日にライティングデザインが公表された。江戸で育まれてきた心意気の「粋」と、美意識の「雅」という2つの異なるライティングを1日毎に交互に替えるライティングである。このライティング機材や調光コントロール全般はパナソニック電工が請負い、ライトアップの全てをLED照明とする予定である。 「粋」は隅田川の水をモチーフとした淡いブルーの光でタワーを貫く心柱を照らし出したライティング 「雅」は江戸紫をテーマカラーとし、金箔のようなきらめきのある光をバランスよくちりばめたライティング 。












日付:2010年4月1日
場所:
【第99回東京ぶらり日記:自由学園明日館】自由学園明日館(みょうにちかん)は桜が美しく、開花期間中の夜はライトアップが行われ、建物とともに美しく照らし出します。ホール内は見学することができ、お茶を楽しむことができます。中ではチェンバロの演奏を聴かせてくれます。 自由学園明日館は、1921年(大正10)、羽仁吉一、もと子夫妻が創立した自由学園の校舎として、アメリカが生んだ巨匠フランク・ロイド・ライトの設計により建設されました。 明日館建設にあたり羽仁夫妻にライトを推薦したのは遠藤新。帝国ホテル設計のため来日していたライトの助手を勤めていた遠藤は、友人でもある羽仁夫妻をライトに引きあわせました。夫妻の目指す教育理念に共鳴したライトは、「簡素な外形のなかにすぐれた思いを充たしめたい」という夫妻の希いを基調とし、自由学園を設計しました。 空間を連続させて一体構造とする設計は、枠組壁式構法(2×4構法)の先駆けとの見方もあります。木造で漆喰塗の建物は、中央棟を中心に、左右に伸びた東教室棟、西教室棟を厳密なシンメトリーに配しており、ライトの第一期黄金時代の作風にみられる、高さを抑えた、地を這うような佇まいを特徴としています。プレイリースタイル(草原様式)と呼ばれるそれは、彼の出身地・ウィスコンシンの大草原から着想を得たもので、池袋の界隈に開放的な空間を演出しています。道路を隔てた南西には、300人収容できる遠藤新設計の講堂がならび、重要文化財・自由学園明日館は構成されています。 1934年(昭和9)に自由学園が南沢(東久留米市)に移転してからは、明日館は主として卒業生の事業活動に利用されてきました。その後、明日館の歴史的、芸術的価値が評価され、1997年(平成9)5月、国の重要文化財指定を受けました。関東大震災や第二次世界大戦の空襲からも免れた明日館でしたが、80年の歳月のなかで老朽化が顕著になったため、1999年(平成11)3月から2001年(平成13)9月まで保存修理工事が行われ、同年11月に再開業いたしました。〜自由学園明日館公式ホームページより〜








日付:2010年3月1日
場所:
【第98回東京ぶらり日記:梅ヶ丘 羽根木公園】 この公園は丘にあり、南側の一部が梅園となっています。2月にはおよそ650本の梅が咲匂い、世田谷梅まつりが行われます。まさに梅ヶ丘です。ここには テニスコートや軟式野球場などのスポーツ施設のほか、プレーパークや、茶室「日月庵」、星辰堂、梅丘図書館があり、区民のレジャー公園となっています。しばらく梅をご覧ください。












日付:2010年2月1日
場所:
【第97回東京ぶらり日記:菅刈公園と西郷山公園】  青葉台二丁目のこのあたりは、江戸時代には「荒城の月」で知られる豊後の岡藩の屋敷があり、滝や池のある回遊式の大名庭園として、江戸時代の地誌に江戸の名所として紹介されていました。その後、明治7年に西郷従道(じゅうどう)がこの土地を購入し、洋館や和館を建造しました。庭園についても、池・滝・大芝生地など大改修が行われ、「東都一の名園」と言われました。その後、旧国鉄の職員宿舎などとなっていましたが、平成9年の調査で、庭園調査を行い、在りし日の名園の姿を一部復原した公園として整備されました。園内には芝生広場・子どもの遊び場・斜面の緑地を保全する区域をもうけるとともに、復原庭園のわきには、展示室・和室・庭園展望室をそなえた和館を設置されています。 菅刈公園と西郷山公園の歴史について、目黒区が出している公園の資料には次のように記載されています。公園のある青葉台2丁目のこの辺りは、江戸時代には「荒城の月」で知られる豊後の岡藩(現大分県竹田市)藩主中川候の抱屋敷(別邸)でした。 屋敷は、滝や池のある回遊式の大名庭園として、 江戸時代の地誌に名所として紹介されています。 明治7年(1874)西郷隆盛の弟で、 政治家 ・ 軍人であった西郷従道が、約6haのこの地を購入し、フランス人技師レスカスによる木造二階建ての洋館や、書院造りの和館を建造しました。 庭園についても、 大改造が行われ、明治期の和洋折衷式の典型的な庭園として「東都一の名園」といわれたこともあったようです。 明治22年(1889)には明治天皇の行幸が行われています。  このようなことから、 人々はこの一帯を”西郷山” と呼ぶようになりましたが、 昭和18年(1943)に旧国鉄に売却され、池が埋め立てられるなどしました。 残存していた洋館は、昭和39年(1964)に愛知県犬山市の「明治村」に移され、 国の重要文化財に指定されています。












日付:2010年1月1日
場所:
【第96回東京ぶらり日記:東京大神宮】  今ご覧なっていますこの“東京ぶらり日記”では、セミナー等の参加や出張で東京に来られた方に“ちょっと行ってみよう”という所の紹介や“東京歳時記のスポット”などを紹介していこう・・・・とスタートしました。     2002年10月、第1回目にご紹介したのが東京大神宮です。明治天皇により東京における伊勢神宮の遥拝殿として明治13年建立されました。ご紹介した当時はまだ穴場的存在で、あまり知られておりませんでした。ところが昨今の婚活ブームにより女性雑誌に頻繁に取り上げられ、「縁結びの殿堂」とまで言われるほど有名になりました。女性雑誌や地図を持った若い女性が一人もしくは数人で、ひっきりなしに、朝から晩まで、四六時中 365日間参拝に参ります。境内で販売されているグッズは、恋みくじ や 華みくじ、金銀2本セットの破魔矢 など女性に大人気のグッズが多種多様と数多く、男性のみで参拝するとちょっと恥ずかしいくらい女の子がいっぱいです。近年の初詣では、参拝の行列がJR飯田橋駅西口近くまで延び、朝から日没まで大変な混雑になります。(写真2010年1月2日)












日付:2009年12月1日
場所:
【第95回 東京ぶらり日記:アイガーデンエア・クリスマス・イルミネーション】   緑で結ばれる、広大な都市空間
千代田区飯田町。この都市に2003年、新しい広大な都市空間が誕生しました。小石川後楽園、皇居そして靖国神社に伸びる緑の空間と連携するような、新しい緑に包まれた都市の丹波(ガーデン)。「働く・住まう・集う・憩う」が調和する環境創造型の高層複合都市として、すべての人々がやすらぎ、潤い、開放感を感じる理想の空間を創造しております。(アイガーデンエア)は、人と自然がふれあう「都市の庭」、緑に包まれた「新しい都市空間」として注目されております。クリスマス・イルミネーションがはじまりました。夜の一時、光の世界をお楽しみください。












日付:2009年11月1日
場所:
【第94回東京ぶらり日記:井の頭恩賜公園 】   地下鉄千代田線と常磐線の乗入駅、綾瀬駅前から点在する広場を遊歩道でつなぎ、逆U字の形にしたのが東綾瀬公園です。 ここは、かつて水田でしたが、区画整理事業から生み出された土地を公園にしました。公園の全長は約2kmで、園内には、サクラ、ラクウショウ、モミジバフウ、ツツジなど季節感を味わえる樹々が植えられています。公園西側の散歩道沿いには、花畑川を水源とするかつての農業用水を生かしたせせらぎが流れ、健康遊具やゲートボール場などが設置されています。また、公園北側周辺には緑に囲まれた各種の運動施設があります。現在、スポーツができる公園として野球場、テニスコート、武道館、温水プールなどを備えており、年齢を問わず楽しめる公園としても脚光を浴びています。












日付:2009年10月1日
場所:
【第93回東京ぶらり日記:井の頭恩賜公園 】  この公園は、大正2年に日本最初の郊外公園として決定され、計画的に整備されました。また、井の頭池は、初めて江戸にひかれた水道、神田上水の源であり、明治31年に「改良水道」ができるまで、重要な役割を果たしていました。  「井の頭池」の命名者は、三代将軍徳川家光と伝えられています。その意味としては「上水道の水源」「このうえなくうまい水を出す井戸」という二つの説があります。 かつては、杉の水源涵養林が池の水面をおおい、美しい風景を作り出していました。樹の種類や林の様相は時とともに変化し、今では「郊外」という響きも薄れてきましたが、都民の憩いの場であることには変わりはありません。  園内は、井の頭池とその周辺、雑木林と自然文化園のある御殿山、そして運動施設のある西園と、西園の南東にある第二公園の4区域に分かれています。










日付:2009年9月1日
場所:
【第92回東京ぶらり日記:東京港/夕暮れの竹芝 】 東京港(とうきょうこう)は、東京湾の中にある港の一つ。港湾管理者は東京都。港則法上では「京浜港東京区」といい、川崎港(京浜港川崎区)の北に隣接する。日本の主要な国際貿易港(五大港)のひとつで、スーパー中枢港湾の指定を横浜港と共に受けている。関税法上の開港で貿易額は名古屋港に次ぎ国内第2位。1960年代末から顕在化した世界的なコンテリゼーションの潮流に国内港湾としていち早く対応、1998年から外貿コンテナ取扱個数で国内首位を維持している。関東大震災ののち港湾設備の重要性が認識され、1925年に日の出埠頭が完成、1941年に国際港としての東京港がオープンした。日本三大旅客港の一つに数えられる。竹芝ターミナルは伊豆七島への玄関口だ。7月〜9月は若者が多い。また、この時期は夕方になると東京湾納涼船が出るため、若いカップルやグループ仲間が多く、浴衣姿で集まるのも特徴です。デッキには語らいと夕涼みに来られている方も多いです。














日付:2009年8月1日
場所:
【第91回東京ぶらり日記:夏スペシャル(海へ行こう:沖縄 慶良間諸島@) 】 今回よりスペシャル版を年1〜2回掲載します。海、岳、森、高原で私の撮影フィルードの一部を紹介します。テーマは“海へ行こう:沖縄・奄美他”“山へ行こう:北アルプス他”“高原へ行こう:尾瀬他”です。東京は自然と文化が豊富な都市です。今後とも色々とご紹介してまいりますが、マンネリ化を押さえる“特番”を入れますのでご期待ください。 さあ、抜けるような青空、ガラスのようなコバルトブルーの海、その透明度・透視度は30m以上、船上から珊瑚の海底がよく見えます。ちびっ子達は船のまわりでシュノーケリングを楽しんでいます。それでは、白砂と珊瑚と可愛い魚たちの素晴らしい世界を紹介しましょう。 慶良間諸島は沖縄の中心那覇から海上を西に40km行った所に、大小20あまりの島々が有ります。世界でも有数の透明度と珊瑚礁に恵まれた海に囲まれています。人が住んでいる島は、 渡嘉敷、座間味、阿嘉、慶留間の4つです。  那覇に近い渡嘉敷島までなら、船で35分位。座間味島、阿嘉島までも1時間くらいで着きます。日帰りも可能な”ケラマブルー”と呼ばれる色の透き通った海。そしてカラフルな珊瑚と魚達。沖縄に来たら一度はそのすばらしさを体験してもらいたいところ!   本島のビーチには無くなってしまった感動が待っています。












日付:2009年7月1日
場所:
【第90回東京ぶらり日記:石神井公園 】 ここには石神井池と三宝寺池があります。井の頭池・善福寺池と並び武蔵野三大湧水池として知られています。 三宝寺池は古来より、武蔵野台地からの地下水が湧き出る池として存在していました。それを1959年に市民が散策できる公園となりました。 三宝寺池の一部は、国指定の天然記念物で、三宝寺池沼沢植物群落があります。中ノ島を中心にカキツバタをはじめ、シャクジイタヌキモやジュンサイなどが生い茂っていました。しかし、1950年代後半から、周辺は都市化が進み、ヨシなどの植物を周辺の人が利用しなくなったため、植生が大きく変わり、その後貴重な水生植物を保護するために、保護活動が行なわれています。石神井池(ボート池)は三宝寺池一帯が風致地区に指定された際、三宝寺池とともに武蔵野の景観を保護する目的で人工的に作られました。もともと三宝寺池から周辺の田んぼに水を引いていた水路でしたが、それを人工的にせき止めて池になりました。南側は木立が多く、傾斜地となっていますが、北側は開放的な遊歩道となっており、すぐ脇に道路があります。池の中には三澤憲司作のモニュメントがあります。 またここは、都内で限られたカワセミの生息地の一つで、休日は野鳥観察を楽しむ方も多く見受けられます。












日付:2009年6月1日
場所:
【第89回東京ぶらり日記:旧岩崎邸 】 旧岩崎邸は1896年(明治29年)に三菱創設者・岩崎家本邸として建てられました。英国人ジョサイア・コンドルによって設計されたもので、現存するのは洋館・撞球室・和館の3棟です。木造2階建・地下室付きの洋館は、本格的なヨーロッパ式邸宅で近代日本住宅を代表する西洋木造建築です。館内の随所に見事なジャコビアン様式の装飾が施されていて、同時期に多く建てられた西洋建築にはない繊細なデザインが、往事のままの雰囲気を漂わせています。  別棟として建つコンドル設計の撞球室(ビリヤード場)は当時の日本では非常に珍しいスイスの山小屋風の造りの木造建築で、洋館から地下道でつながっています。洋館と結合された和館は書院造りを基調にされていて、広間には、橋本雅邦が下絵を描いたと伝えられる日本画などが残っています。現存する広間を中心に巧緻を極めた当時の純和風建築をかいま見ることができます。
 大名庭園を一部踏襲する広大な庭は、建築様式と同時に和洋併置式とされ、「芝庭」をもつ近代庭園の初期の形を残しています。
 1961年に洋館と撞球室が重要文化財に指定。1969年に和館大広間は洋館東脇にある袖塀とともに、1999年に煉瓦塀を含めた屋敷全体と実測図がそれぞれ重要文化財に指定されました。 自由な時間がとれた日に、ゆったりと流れる時間を楽しむのも良いでしょう。














日付:2009年5月1日
場所:
【第88回東京ぶらり日記:浅草神社例大祭 (三社祭) 】 今年 平成21年度の三社祭は、5月15日(金)・16日(土)・17日(日)の3日間開催される。[三社祭の歴史] 浅草寺縁起によれば、今から1372年前、西暦628年(推古天皇の36年)3月18 日に、宮戸川(隅田川)で投網をしていた、檜前浜成・竹成の兄弟が、漁網の中に1 像を発見し、持ち帰って土地の文化人であった土師中知に一見を請うた処、これぞ聖 観音世音菩薩の尊像(ご秘仏であるが、1寸8分の仏像といわれる)にして、自らも 帰依するところの仏像である事を告げ、その功徳を諄々と説いた。土師氏はまもなく 剃髪して沙門となり、自宅(今の駒形堂のあたり)を改めて新構の寺(浅草寺の始ま り)とし、さきの観音像を奉安して供養護持の傍ら、郷民の教化に生涯を捧げられた。  尚、観音様ご示現の折り、天から長さ百尺ばかりの金鱗の龍が下り、歓喜勇躍 し、三日三晩お堂の周りを回ってお守りした。そしてその際、千株の松が生じたという。これが浅草寺の山号(金龍山)の由来となった  土師氏の没後、舒明11年(639年)3月18日、その嫡子が観世音の夢告を蒙り、「汝らの親は我を海中より上げて薫護せり、故に慈悲を万人に施し今日に及びしが、その感得供養の力は賞すべきなり。即ち観音堂の傍らに神として親達を鎮守すべし。名付けて三社権現と称し、祀り奉らば、その子孫土地と共に繁栄せしむべし」という 告示があり、ここに三社権現社が創建された。もちろん、この年代に権現思想(仏・ 菩薩が衆生を利益するため仮の姿を現す)は考えられないが、この記述は浅草神社と 浅草寺との全く不可分の関係を示すものとして見逃せない。やがて正和元年(1312 年)3月になると「我は是れ阿弥陀三尊なり。神輿をかざり奉り、船遊の祭礼をいとなみ、天下の安寧を祈るよう」との神託があったとも「縁起」は伝えている。今日に三社の本祭礼船渡御がめ始められたことが知られる。この記述により、「ご三神」は少なくとも、鎌倉時代初期には社殿に祀られるようになったと考えてよいだろう。ちなみに、土師氏、檜前氏共に、史上著名なる出雲氏族の東漸に伴い、当時蒼民とした 武蔵の国浅草郷に下り、その開拓に当たられた。明治初年、神仏分離令が出て、浅草 神社と改名された。なお、重要文化財に指定されている現社殿は、慶安2年、徳川3 代将軍家光公により建立され、先の主座神三柱と、後に徳川家康公と大国主の命の二 柱が合祀されている。なお、三網の神紋は土師氏並びに檜前氏の家紋である。三網紋のまん中は中知、右側は兄浜成、左が弟竹成を表し、左右で微妙に高さの違いがある。 ○公式ホームページ http://www.sanja.jpn.org/index.html より












日付:2009年4月1日
場所:
【第87回東京ぶらり日記:新宿御苑の桜 】 今回は都心にある桜の名所の一つ、新宿御苑を紹介します。サラリーマンやOL、学生、家族連れで賑わっています。江戸時代に信州高遠藩主内藤家の屋敷があったこの地に、新宿御苑が誕生したのは明治39年のことです。皇室の庭園として造られましたが、戦後、国民公園となり、多くの方に親しまれてきました。広さ58.3ha、周囲3.5kmの庭園には、プラタナス並木が美しいフランス式整形庭園や広大なユリノキが高くそびえ、明るくのびやかな景観を呈しているイギリス風景式庭園、昔ながらの日本庭園を巧みに組み合わせており、近代西洋庭園ともいわれております。また、数少ないわが国の風景式庭園の名作とされています。豊かに茂る樹木は1万本を越え、とりわけ、わが国に初めて取り寄せられたユリノキ、プラタナス、ヒマラヤシーダー、ラクウショウなどの巨樹が独特の景観を形づくっています。また、約1300本の桜は春の大きな魅力となっています。=詳細は公式ホームページをご覧ください。












日付:2009年3月1日
場所:
【第86回東京ぶらり日記:早春の水元公園 】 ここのページで2005年6月1日に都内最大級の花菖蒲園として紹介した水元公園の早春編です。この公園には、高さ20mにも達する200本のポプラ並木や生きている化石として知られるメタセコイヤが約1,800本、都立公園で最大の森を形成しています。この森にも新しい芽がつきはじめました。またここにはバードサンクチュアリーがあり、自然環境に近い水辺に設置されており、この時期には旅立ち前の水鳥が戯れています。












日付:2009年2月1日
場所:
【第85回東京ぶらり日記:愛宕山 (港区) 】 愛宕山 (あたごやま)は、東京都港区愛宕にある山である。一帯の愛宕神社境内には、三角点があり、25.7mの標高が記録されている。天然の山としては東京23区内最高峰。江戸時代から愛宕山は、武士たちの間の信仰と、山頂からの江戸市街の景観の素晴らしさで有名な場所であった。『鉄道唱歌』の第1番にも「愛宕の山」と歌われている。出世の石段山上にある愛宕神社は、もとは1603年にこれから建設される江戸の防火のために徳川家康の命で祀られた神社であったが、「天下取りの神」「勝利の神」としても知られ、各藩武士たちは地元へ祭神の分霊を持ち帰り各地で愛宕神社を祀った。桜田門外の変で井伊直弼を襲った水戸藩の浪士達もここで成功を祈願してから江戸城へ向かったと言う。現在でも「男坂」の急な石段は「出世の石段」と呼ばれている。これは、江戸時代・増上寺参拝の折に徳川家光が山上にある梅が咲いているのを見て、「梅の枝を馬で取ってくる者はいないか」と言ったところ、讃岐丸亀藩の家臣(曲垣平九郎)が見事馬で石段を駆け上がって枝を取ってくることに成功し、その者は馬術の名人として全国にその名を轟かせた、という逸話から来ている。NHK放送博物館また、日本放送協会(NHK)の前身の一つである社団法人東京放送局(JOAK)は、この愛宕山に放送局を置き、1925年の日本初のラジオ放送は、この愛宕山から発信された。このように歴史の舞台となってきた愛宕山は現在かつてのような見晴らしはなくなってしまったが、大木などによる緑の豊かさは変わらない。歴史ある曹洞宗青松寺・愛宕神社・NHK放送博物館と、それらを取り囲む超高層ビルの群れ(例えば青松寺を挟んで建つシーザー・ペリによる愛宕グリーンヒルズツインタワーや、虎ノ門・神谷町・霞が関や汐留などのビル群)が同時に存在する、現在の東京を象徴する風景を見せている。愛宕山は、地形的にも自然形成によって成立したものであると地質学的にも立証されているが、周辺の低地との兼ね合いから形成のメカニズムが今ひとつはっきりしていない。現在の愛宕山から東を見る。愛宕山の東一帯は愛宕ノ下と呼ばれ、武家屋敷が広がっていた。幕末にフェリックス・ベアトによって撮影。奥の広い緑地が現在の浜離宮恩賜庭園で、その右には江戸湾を臨むことができた。築地本願寺、台場なども見える。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』












日付:2009年1月1日
場所:
【第84回東京ぶらり日記:SHINJUKUサザンライツ2008〜2009 】小田急電鉄・タカシマヤ・JR東日本の3社共同で開催する「SHINJUKUサザンライツ」が今年9回目を迎える。コンセプトは「Thousands of lights at Southern (part of) Shinjyuku(幾千もの光が織りなすページェント、新宿南口)」。新宿駅南口前に広がる新宿サザンテラス、タカシマヤ タイムズスクエアの広大なエリアにバラエティーにとんだ多彩なイルミネーションや照明を施し、昨年にも増して美しくロマンチックな演出を展開する。開催期間 2008.11.05(水)〜2009.02.15(日) ※タカシマヤ タイムズスクエアは2009.01.12(月・祝)まで 。点灯時間 17〜24時(12月は16時30分〜、12/31は16時30分〜翌1時) ※時間・日程は変更になる場合あり 、電球の数 未定 。料金 無料












日付:2008年12月1日
場所:
【第83回東京ぶらり日記:秋の代々木公園】 代々木公園は、23区内の都市公園の中で四番目に広く、道路を挟んで森林公園としてのA地区と、それとは対照的な陸上競技場、野外ステージなどを備えたB地区とに分かれています。かつて陸軍代々木練兵場だったこの場所も、戦後は米軍の宿舎・ワシントンハイツとなり、東京オリンピックの選手村を経て公園となりました。開園当時はまだ若かった木々も、今ではすっかり成長し、隣接する明治神宮の木々とともに緑濃い森を作っています。また、平成2年5月には、高さ15m〜30mに及ぶ大小3基の噴水や水回廊をもつ水景施設が完成、”水と緑”に恵まれた公園として生まれかわりました。 公園の中央に位置する草地広場では、ここに寝転んで空を見上げると、周りを深い森に囲まれて、ポッカリとあいた大きな青空とまぶしい太陽に出会います。代々木公園では、森林浴と日光浴が同時に体験できます。 サイクリングコース(全長1.8km)、バードサンクチュアリー、野外ステージ、イベント広場、陸上競技場(織田フィールド)、サッカー場、バスケットボールコートと自然に近い環境でスポーツも楽しめます。












日付:2008年11月1日
場所:
【第82回東京ぶらり日記:東京大田市場】 東京で市場と聞くと、ほとんどの人は「築地」を思い出します。しかし、青果市場の取扱量でも、面積でも日本一なのは、実は「大田市場(しじょう)」なのです。花の市場があることも大きな特徴で、東京のお花屋さんなら、みんな一度はというより、毎日のように、ここへ買い付けに来てるはずです。総面積40万1925平方メートルと日本最大の面積を誇る大田市場は、秋葉原にあった神田市場・荏原市場、蒲田分場を統合、水産物については大森市場を移転させることで、平成元年に業務を開始しました。青果・花きの取扱量に関しては1日当たり3,239t(17年度)花に関しても、切り花に換算すると1日の取扱量が324万本(同)と日本一です。場所は、羽田から飛び立つ飛行機がおっきく見える羽田空港のほど近く。住所は大田区になります。おとなりには埋立地跡に造られたバードウォッチングのメッカ「東京都野鳥公園」(本WEB 2008年7月掲載済)もあります。早めに見学を終えたら、寄り道して東京湾の自然を楽しむのもいいでしょう。なお、この大田市場は24時間オープンの見学コースがあり、時間帯による市場風情を見ることができます。“せり”をご覧になるには、朝早めにお越しください。












日付:2008年10月1日
場所:
【第81回東京ぶらり日記:町田市三輪七面山まほろば三輪の里道 曼珠沙華】 三輪の名は、江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』に三輪村や奈良村が記載されていることから、既にその頃には存在していた。恐らく奈良時代、大和明日香の三輪の里から移り住んだ人達が、この地の景観が大和国の三輪の里の風景に似ていることから、故郷の三輪を懐かしんで地名としたのであろう。三輪地域には横穴古墳群や瓦窯址、集落跡等の遺構がみられ、古墳時代から奈良時代にかけて急速に発展したと思われる。また奈良三輪山の大神神社の社史には、武蔵国の三輪神社(熊野神社、椙山神社)に祭神の大物主命を贈ったと記されており、まほろば奈良との深い縁がうかがい知れる。 標高74mの三輪七面山にあった沢山城(三輪城)は後北条氏の小田原城の出城である。天正18年(1590)城内の米を供出せよとの北条氏照の印判状が残されており、氏照が城主であった八王子城の支配を受けていたと思われる。事実炭化した焼米が大量に見つかっており、城内に大量の米の貯蔵庫があったと推定されている。前田・上杉を主力とする秀吉軍の攻撃を受けた折、自ら火を放って城を捨てたことが焼米出土の理由ではないかとも考えられている。鎌倉街道ハヤの道を望む位置にあり、軍事的、交通上、重要な拠点であったと思われる。 山頂の七面堂は七面大明神を祀る。七面大明神は七面天女、七面大菩薩とも呼ばれ、吉祥天の垂迹とされる。日蓮聖人ゆかりの身延山の裏鬼門をおさえ、身延山と法華経を守る神様という。ここ三輪七面堂は元禄15年(1702)に建立された。昭和初年頃は冬至の日に星祭りを行っていた。厄年の人がこの日にお参りをすると厄を逃れることができたという。但しこの行事、今はもう行われていない。












日付:2008年9月1日
場所:
【第80回東京ぶらり日記:国立昭和記念公園 晩夏】 夏の草花も終わりを告げ、園内の花壇も秋の装いになろうとしています。ベコニアをはじめ移りゆく草花をご覧ください。この公園は度々ご紹介しておりますので、ここでは省略させていただきます。 ◆詳しくは【国立昭和記念公園】http://www.showakinenpark.go.jp/ をご覧下さい。












日付:2008年8月1日
場所:
【第79回東京ぶらり日記:東京湾海中[三浦半島 城ヶ島沖]】 今回は東京湾の入り口(海中)です。一般の人にとって“ぶらり”とは気軽に行くことはできませんが、スクーバダイビングする方には“いいスポット”ですのでお勧めします。都内の水族館にて“東京湾の生き物”コーナーやダイビング入門者に関心のあるものをいくつか紹介いたします。興味のある方は、書店にて図鑑をご覧ください。














日付:2008年7月1日
場所:
【第78回東京ぶらり日記:東京港野鳥公園】 東京湾の埋立地によみがえった自然を生かしてつくられたのが東京港野鳥公園です。大田市場(東京都中央卸売市場)に隣接し、24.8ヘクタールの広さがあります。かつては遠浅の海でしたが、1960年代後半から埋め立てが始まり、埋め立て後、地面に雨水がたまって池や原っぱができ、いつしか野鳥が集まるようになりました。こうして大井埋立地はバードウォッチングの名所となり、1989年10月東京港野鳥公園が開園しました。園内には河川の中流から下流までを想定した様々な環境が復元されており、毎年、シギ・チドリ類、カモ類といった水鳥や小鳥類、オオタカなどが公園を訪れ、年間120種類前後、開園以来214種類(2007年2月現在)の野鳥が観察されています。2000年6月17日には、「シギ・チドリ類重要生息地ネットワーク」の参加湿地となり、シギ・チドリ類の重要な生息地であることが国際的に認められました。ここは野鳥観察のほか、水辺の生物、カニをはじめとする干潟や磯場の生物の観察にも適した場所となっています。《施設紹介》●自然生態園:淡水池や小川、田畑や原っぱ、雑木林など、農村風景をモデルにした環境になっています。野鳥、カエル、トンボなどなどが観察できます。観察小屋と自然学習センター、トイレがあります。●芝生広場:草丈の低い原っぱです。のんびりくつろいだり、バッタなどを観察できる場所です。自動販売機やトイレ(車椅子対応有)、東屋があります。●東淡水池:淡水の池を中心にヨシ原と樹林が周りを囲んでいます。カイツブリ、カモ、小鳥などが観察できます。東観察広場から観察壁ごしに、この池をみわたすことができます。●潮入りの池とその周辺:運河とつながっていて、海水が出入りする汽水池です。干潟がでます。春と秋の渡りのシーズンにはシギやチドリが訪れます。水辺の鳥やカニ、トビハゼなどが観察できます。ネイチャーセンターや観察小屋があります。●管理事務所(2階):園内の情報が手に入ります。受付窓口、小会議室(貸出可・要予約)、トイレなどがあります。●ネイチャーセンター(地上3階、地下1階):園内の情報が手に入ります。潮入りの池が見渡せます。観察室、展示室、視聴覚室、図書コーナー、自動販売機(飲み物)、トイレ(車椅子対応有)などがあります。冷暖房完備。●自然学習センター(平屋):イベント時に利用しています。トイレがあります。●1・2・3・4号観察小屋:野鳥を観察できます。望遠鏡、イスがあります。●東観察広場(観察壁)野鳥を観察できます。東淡水池が見渡せます。【詳細は東京港野鳥公園ホームページhttp:// park15.wakwak.com/~tokyoko/を参照願います】












日付:2008年6月1日
場所:
【第77回東京ぶらり日記:国立科学博物館付属自然教育園】 自然教育園は、大都市東京にあって昔の面影を残す数少ない森です。 一般的な植物園や庭園と違い、自然の移りゆくままという独特の考え方の元に、できる限り自然の本来の姿に近い状態で残しています。 また、一部には「教材園」を設け、昔から東京にある植物群落を再現しています。様々な研究活動のほか、土日などは専門の職員がそれぞれの分野に沿って園内を案内解説する教育普及活動にも力を入れてます。(→ 5月中旬に入園したときは、園内に生息するカワセミとその巣の中にある卵とヒナの養育のライブ映像で専門職員の方が解説しておりました。) 自然教育園の生い立ちは、今から400〜500年前の中世の豪族の館から始まります。その後、高松藩主松平頼重の 下屋敷 (江戸時代)、陸海軍の 火薬庫 (明治時代)、白金御料地(大正時代)と歴史をかさねてきました。 この間は、一般の人々は中に入ることができなかったため、まれに見る豊かな自然がここに残されました。そして、昭和24年(1949年)に全域が天然記念物および史跡に指定されると同時に、一般に公開されるようになりました。












日付:2008年5月1日
場所:
【第76回東京ぶらり日記:玉川上水緑道】 玉川上水に沿って造られた緑道です。江戸の人口が増えて井戸や小川だけでは飲料水を賄えなくなったため、江戸幕府は多摩川の水を江戸に引くことを計画しました。承応2年(1653年)に玉川庄右衛門、清右衛門の二人の兄弟が完成させたといわれており、以後玉川上水と呼ばれるようになりました。 上水は取水口である多摩川の羽村から四谷大木戸までの43kmに及ぶものですが、この間の落差が小さく勾配が緩やかなため、うまく水を流すのに苦心したと伝えられています。 現在、玉川上水緑道として開園されているのは、三鷹市の牟礼橋から福生市の平和橋までの23.8kmです。しかし、かつての上水の面影を求めて、さらに上流を散策することもできます。○玉川上水は飲料水として用いられていたので、水の清浄と美観を保つため両岸にはマツやスギが植えられていました。今も武蔵野の面影をとどめるように、上流にはクヌギ、コナラ、マツ、そして下流にはシデ、エゴノキなどのうっそうとした林がつづきます。また、途中の小金井市や三鷹市あたりでは、サクラやケヤキが多くみられます。 このように春のサクラ、初夏の新緑、秋の紅葉、そして冬木立と四季を通して自然の美しさを楽しめます。 ○玉川上水は、それ自体、江戸時代の土木事業を今に伝える史跡です。上水路の小平水衛所から下流には昭和61年8月、清流復活事業により流れがよみがえりました。 このほか上水沿いには数々の史跡があります。下流からさかのぼってみますと、三鷹市には神田上水水源碑、武蔵野市には国木田独歩碑、小金井市には天然記念物のマツ、桜堤、小平市には小平水衛所、野火止用水などがあります。また平成11年には宮本橋より下流地域が歴史環境保全地域に指定されました。 <出典>“公園に行こう”「玉川上水緑道」より 










日付:2008年4月1日
場所:
【第75回東京ぶらり日記:傳通院と播磨坂桜並木】 傳通院(でんづういん)は、今から約600年程前の応永22年(1415)、浄土宗第七祖了誉聖冏上人が開山したお寺です。当時は小石川極楽水の小さな草庵で、無量山寿経寺という名で開創されました。それから約200年後の慶長7年(1602)、徳川家康公のご生母於大の方が逝去され、この寿経寺を菩提寺と定められ、於大の方の法名「傳通院殿」から「傳通院」と呼ばれるようになり、徳川家の庇護のもと大伽藍が整えられました。ここには「於大の方の墓所」の他に千姫墓所」「孝子の方墓所」はじめ多くの著名人の墓所がある。 播磨坂はこの坂は戦後の区画整理により、新しく造成された環三道路(環状3号線)によって出来た、極めて新しい坂である。かつて、このあたりは、水戸中納言頼房(光圀に父)を祖先とする、常陸国新治郡府中の藩主松平播磨守の上屋敷(本邸)で、広い面積を占めていた。坂下は千川(小石川)が流れ、低地一帯は、「播磨たんぼ」といわれたたんぼであった。 戦後、ここに新しく坂が出来たとき、播磨屋敷の跡地であり、かつての「播磨たんぼ」へ下る坂ということで、誰いうとなく「播磨坂」と呼ぶようになった。土地の人たちの知恵による「昭和の坂」である。昭和35年頃から「全区を花でうずめる運動」で地元の人たちが協力して、樹齢15年位の桜の木を約150本ほど植えた。そして丹精の結果現在では「環三のグリーンベルト」として立派に育ち、昭和43年から桜祭が実施されている。文京区の桜名所の一つとなっている。














日付:2008年3月1日
場所:
【第74回東京ぶらり日記:多摩川台公園】 公園は多摩川に沿って伸びる丘陵地に約750メートルにわたって展開しています。面積は66,661平方メートルと広大なうえ、自然林の道、古墳、展望台、水生植物園、四季の野草園、あじさい園、山野草のみち、ふたつの広場など見所は豊富です。● 多摩川八景のパノラマ:多摩川を見下ろす田園調布の山の斜面に位置する多摩川台公園の中腹にある「見晴し台広場」 から眺めるパノラマは、眼下に大きく蛇行する多摩川を、遠景には富士山・丹沢・箱根の連山を。 晴れ澄んだ日にはこれぞ多摩川八景という景観が楽しめる。 ● 古墳群と古墳展示室 : 都内で最も知られている古墳の一つ「亀甲山古墳」と、この地域で最古の前方後円墳でる蓬莱山 古墳の間に、 小円墳が8個連なった多摩川台古墳群が園内にあります。 また、多摩川台公園の入り口にある古墳展示室内に、ほぼ四世紀から七世紀にかけて作られた古墳という巨大な墓が実物大のレプリカで再現されています。これは、東国(関東地方)で六世紀に造られた横穴式石室をもつ前方後円墳の後円部の一部です。多摩川台公園に保存されている現在の古墳の姿と見比べていただけるように、古代人が造った当時の姿そのままに復元してありますので皆様も古代人になった気分でご覧いただけます。入室料は無料です。 ● 春のお花見・初夏のアジサイ・植生 :「自由広場」と「運動広場」「見晴し台」周辺を中心に300本余りのサクラが植えられています。 特に、多摩川を見下ろせる見晴し台付近は、歩く隙間もないほどにゴザが敷き詰められるお花見・ 酒盛りの名所となっています。駅寄のAREAには見事に手入れされた七種類のあ紫陽花が鑑賞できるあじさい園があり、毎年6月 の初めに催される「あじさい祭」の頃が特に見頃。園内には、その他に水生植物園と四季の 野草園がある












日付:2008年2月1日
場所:
【第73回東京ぶらり日記:麻生山 浄慶寺「滑稽な羅漢さん(石像)」】天正10(1584)年、麻生の領主三井左衛門慰が小牧長篠の戦に出陣・戦没した父・寿光院の菩提を弔って開創したと伝わる。 しかし、「蓮門精舎旧詞」によれば、元和7(1621)年の開創と記されているという。 開山は証蓮社誠誉順阿長応和尚。 麻生山寿光院浄慶寺といい、浄土宗。関係の深い、東京・小石川の伝通院(徳川家康の生母の菩提寺)から、戦後、浄誘尼・浄山尼・浄香尼の三尼僧が住職を勤めている。明治中期までは檀家を持たず、小作人に貸した田畑の年貢で寺門を護持していたが、戦後の農地解放で田畑を失い維持困難な時期もあった。 それでも境内面積は約5,300m2もあり、ありがたい緑地だ。「神奈川の花の名所100選」に選ばれている麻生区柿生(かきお)の「アジサイ寺 浄慶寺」。梅雨に入って雨にぬれているアジサイと境内におわす滑稽な羅漢さん(石像)に、思わず笑みが浮かび心が和むお寺です。小田急線柿生駅から徒歩約10分のところにある緑豊かな小高い丘陵部に、淨慶寺はあります。1621年(元和7年)に創建された浄土宗の寺院で、麻生山 浄慶寺(麻生諦善住職)といいます。春の梅や桜、初夏のアジサイやハナショウブ、秋の彼岸花など四季折々に咲く花が訪れる人の目と心を癒してくれます。 六月上旬から七月上旬の紫陽花(アジサイ)の頃は、実に見応えがあります。約5300平方メートルの境内にはヒメアジサイ、セイヨウアジサイ、ベニガクなど10種類以上、およそ3000株の紫陽花に埋め尽くされて、雨傘をさして通るのが難しいくらいで、情緒たっぷりです。先代の住職が、昭和39年(1967年)頃からアジサイを植え始めたそうです。 小雨の降るこの時期に、親しい人と二人、一本の合い合い傘で行かれたら最高ではないでしょうか。団体で行くのではなく、一人二人の少人数で、紫陽花の花と滑稽な羅漢さん(石像)を見て何かを感じ取って欲しいと思います。












日付:2008年1月1日
場所:
【第72回東京ぶらり日記:関東のいづもさん「出雲大社 相模分祠」】 出雲大社におまつりします大國主大神(おおくにぬしのおおかみ=だいこくさま)様は、「和譲」の御神徳で国づくりをなされた国土を御皇室の御祖先に奉還―国譲りなされて奇しき御神業を成し顕されしあわせの平和≠導かれて、目には見えない神事(かみごと)の世界を治められる幽冥(神事)主宰大神(かくりごとしろしめすおおかみ)として、出雲大社にお鎮まりになり、生死ひとつながらに私どもをお守りいただいています。この御神業のことは、皇后陛下の「出雲大社に詣でて」と御題なされた「国譲り 祀られましし 大神の 奇しき御業を 偲びて止まず」との御歌の如く、永く御皇室の祈り≠ニなされておいでのことが拝されます。【出雲大社相模分祠 由緒】 当やしろは、明治21年に大国主の大神の御教えを神奈川の地に広めようとされた、出雲大社国造・千家尊福(せんげたかとみ)公の指導を受け、出雲大社相模分院として創立、明治23年に大住郡渋沢村峠(現在の渋沢峠)に社殿が建立されました。その後、火災消失のため御霊璽を分院長である草山家に移していましたが、昭和50年、秦野市平沢の現在の地に本殿が再建され、昭和54年に幣殿・拝殿・参集殿が造られました。そして、平成3年には出雲大社本社より『出雲大社相模分祠』への昇格が承認され、さらなる『むすび』の実践に努めております。≪公式ホームページより≫














日付:2007年12月1日
場所:
【第71回東京ぶらり日記:奥多摩 鳩ノ巣渓谷】 白丸湖から多摩川沿いに遊歩道を歩きながら、渓谷や吊り橋など大自然を満喫できるハイキングコース。清流のほとりの温泉で疲れを癒したり、新鮮な食材を利用した料理を楽しんだりすることができる。ゆったりと水を湛える白丸湖、一転して巨岩奇岩がころがり、急峻な流れが男性的な渓谷美を見せる鳩の巣渓谷、さらには40mの高さから見下ろす涼やかな流れ。清流の変化を楽しめる、夏涼しい渓谷のみちです。また、多摩川にかかる橋を吊り橋も含め、4回渡り変えますので橋からの眺望も楽しみです。 ぜひ一度お出かけください。












日付:2007年11月1日
場所:
【第70回東京ぶらり日記:高尾山ハイキング】 東京都八王子市に属する「高尾山」は、関東山地の東南、都心約50キロメートルに位置しています。都心からの交通の便にも恵まれ、日帰りでもゆっくりと山歩きが楽しめる国定公園です。 山麓からはケーブルカー、リフトで山上まで登ることができます。また歩いて登る道も3ルートありますが、いずれのルートも1時間30分ほどで山頂に達することができます。6コース設けられた自然研究路には、高尾山特有の動物・植物・昆虫・野鳥の解説板が取り付けてあり、自然の野外博物館となっています。ケーブルカー高尾山駅では山上展望台からの眺望は絶景の大パノラマです。北側には奥秩父連山・日光連山、北東には関東平野の向こうに筑波山の頂、また、八王子・立川の市街地・高層ビル群・横浜ランドマークタワーや東京タワーまでも一望できます。さらに南南東には相模湾・江ノ島も望むことができ、夏の夕涼みにはここからの眺めが、まさに1000万ドルの夜景となります。 山頂付近からは、南に丹沢山塊、天候の良い日には富士山の姿もくっきりと見ることができ、空気の澄んだ冬の時季には、南アルプスを遠望することができます。暖帯林と温帯林とが織りなす広葉樹林に、樹齢数百年もの大杉が林立する高尾山。昭和42年には明治百年を記念して「明治の森・高尾国定公園」となり、大阪の箕面国定公園とを結ぶ、東海自然歩道の東京側起点となっています。 ぜひ一度お出かけください。










日付:2007年10月1日
場所:
【第69回東京ぶらり日記:葛西臨海公園A ■鳥類園】 むかし、葛西には三枚州・高須といった広大な干潟があり、魚貝類が豊富で、それらをエサとする鳥類が飛来し、繁殖する関東でも有数の場所でした。鳥類園はそんな葛西臨海公園の中にある野鳥のためのサンクチュアリです。淡水池・汽水池の他、林や草地を人工的に造成し、豊かな自然環境を再生しています。園内では、四季を通じて、さまざまな野鳥を観察することができます。また、ウォッチングセンターにはフィールドスコープを随所に配置されており、自由に見ることができる。双眼鏡もしくはカメラに望遠レンズを付けて、一度行ってみてください。愛鳥家のためのブログが2つ設置されており、ご覧ください。●鳥類園ブログ「葛西臨海公園・鳥類園T」http://kasai.exblog.jp/ ●鳥類園ブログ「葛西臨海公園・鳥類園U」http://choruien2.exblog.jp/










日付:2007年9月1日
場所:
【第68回東京ぶらり日記:葛西臨海公園@】 この公園は大空のもと紺ぺきの海が広がる東京湾に、緑と水と人のふれあいをテーマに五つのゾーンを配して誕生した公園です。昭和60年1月から葛西沖開発土地区画整理事業の一環として着手され、平成元年度にその一部約38ヘクタールがオープン。平成6年4月には鳥類園ゾーン、平成7年7月には展望レストハウス「クリスタルビュー」、平成13年春には観覧車がオープンしました。また、葛西海浜公園にも隣接しており、行楽地としての色あいの濃い公園となっています。 この公園は六つのゾーンで構成されており、それぞれ特徴ある施設とエリアとなっています。《@エントランスゾーン》公園サービスセンター、駅前広場と噴水、海へのプロムナード、駐車場などがあり、来園者を迎えるためのエントランスゾーンです。 《A芝生広場ゾーン》 緩やかな勾配の芝生広場を中心に、蓮池、散策路、樹林、休憩舎、宿泊施設などがあります。《B汐風の広場ゾーン》親水護岸に沿う緩やかな勾配の芝生広場、東京湾を望む展望レストハウス「クリスタルビュー」、芦ヶ池などがあり臨海部の景観や香りが満喫できます。《C人工渚》海上には葛西渚橋で結ばれた人工渚(港湾局所管・葛西海浜公園)があり、春から夏にかけては、大勢の水遊び客で賑わいます。人工渚は西、東とありますが、東なぎさは、立入り禁止で、野鳥の楽園となっています。《D鳥類園ゾーン》核となる鳥類園ウォッチングセンターでは、レクチャールームや情報コーナーで、鳥に関する映像や展示をしています。また、園内には二つの池、観察小屋、のぞき窓などがあり、野鳥等の自然観察ができます。《E水族園ゾーン》公園中央部に設けられた葛西臨海水族園の施設を中心とする海の生物とのふれあいゾーンです。 なお、D鳥類園ゾーンとE水族園ゾーンの写真と内容は次回にご紹介させていただきます。










日付:2007年8月1日
場所:
【第67回東京ぶらり日記:浅草サンバカーニバル】 今年も8月25日(土)13:30より浅草サンバカーニバルのパレードが馬道通り〜雷門通りで行われます。ぜひ一度ご覧になったらいかがでしょうか。今年で第27回を迎えるカーニバルには併設の催しも多数あり、公式ホームページ http://www.asakusa-samba.jp/index.htm で確認されてから行かれるのよろしいかと思われます。《浅草とサンバについて(上記公式ホームページより引用)》浅草といえば「江戸下町情緒」というイメージがありますが、実は大の新しもの好きなのが浅草ッ子の気質。 明治時代には日本最初の映画館や、日本で初めてエレベーターを取り付けた12階建ての赤レンガビル「凌雲閣」、水族館、サーカスなど、浅草には他の町にはない新しい文化がどんどん取り入れられてきました。 また、大正時代になると「大正オペラ」や「安来節」で賑わい、幅広いジャンルの音楽劇を生み出してきました。 歌って、踊って、楽しむサンバカーニバルと浅草の結びつきはすでにこの頃からあったのです。 そうした背景のなか、昭和30年代後半から40年にかけて、盛り場の中心は、他の地区に移っていきました。 このような状況の中で当時の内山台東区長と浅草喜劇俳優の故・伴淳三郎氏が、浅草の新しいイメージをつくるものとして、ブラジルのサンバカーニバルを浅草のお祭りとして取り入れることを提案。 これをきっかけに、浅草の商店連合会が主体となるサンバカーニバルが誕生したのです。 さらに浅草観光連盟もカーニバル推進協議会に加わり、浅草サンバカーニバルは東京下町の夏を代表するお祭りのひとつにまで成長。 現在では、出場するチームも全国区のものとなり、またサンバの本場、ブラジルの人たちからも非常に高い評価をいただいています。












日付:2007年7月1日
場所:
【第66回東京ぶらり日記:新国立劇場】 新国立劇場は、オペラ、バレエ、現代舞踊、演劇等の現代舞台芸術を公演するための劇場として、平成9年10月、オープンしました。この劇場には、オペラ劇場、中劇場、小劇場の三つがあり、多彩な舞台転換を可能とするなど最新の技術を駆使した設備が備えられていて、演出には様々な工夫を凝らすことができる仕組みになっています。 また、新国立劇場の施設内には情報センターが設けられており、情報コーナー(1階)、図書閲覧室(5階)、ビデオブース(5階)が一般の方々に利用されています。千葉県銚子市には舞台美術センターがあり、公演で使われた舞台装置や衣裳の保管、展示を行っています。 [施設] ●オペラ劇場 (Opera House) 座席数:1,814席 1〜4階の4階層に客席を配置。 主としてオペラ、バレエ等の公演に利用 コンサートが開催されたことは、過去に数回しかない。 オーケストラピットは常設であり、公演内容に応じて深さの調整が可能。 4面舞台をもつプロセニアム形式。上下奥舞台の機構を使用し、度々入れ替え公演が行われている。 オペラの字幕装置は舞台左右に設置されている。 劇場が愛称を公募し、2007年3月29日にオペラパレス(OPERA PALACE Tokyo)と決められた。● 中劇場 (Playhouse) プロセニアム形式:1,038席、オープン形式:1,010席 1〜2階の2階層に客席を配置。 主として演劇、現代舞踊等の公演に利用。オペラ、バレエ公演も可能。 4面舞台、仮設オーケストラピットもある。 ●小劇場 (The Pit) 座席数:340〜468席 B1Fにある。 可動式の舞台と座席をもつ。 オープンステージによる上演形式を持つ現代舞台公演の公演に利用される。 ●その他 情報センター(5F)、リハーサル室(B2F)、研修室、屋上庭園(5F)など。鉄骨鉄筋コンクリート造 地上5階・地下4階 延床面積:68,879u 設計:柳澤孝彦+TAK建築研究所 (出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)










日付:2007年6月1日
場所:
【第65回東京ぶらり日記:明治神宮御苑の花菖蒲田】 明治神宮御苑は、江戸時代初期熊本藩主加藤清正、後に彦根藩主井伊直孝の下屋敷の庭園でしたが、明治時代に宮内庁所管となり代々木御苑と称されていました。ここの菖蒲田は、明治天皇が皇后のために、 全国から菖蒲の優良品種を集めて植えさせたものです。
植えられている花菖蒲は江戸系で当初80余種でしたが、 現在150種、 大株1,500を超える規模となっています。 花菖蒲田の中ほどの小高い場所に四阿があります。 そこに上ると、 花菖蒲田が一望できます。花菖蒲田は、 曲がりながら次第に細長くなり北方向へと続いています。 園路の区切りのところで、 花菖蒲田から右側の園路へ上り、水路を左下に見ながら北方向へ歩いて行くと、 清正井(きよまさのいど)があります。 下りて見ますと、きれいな水が湧き出ています。傍にある説明には、次のとおり記載されています。この地に下屋敷を構えていた加藤清正が掘ったと伝えられ、一年中絶ゆることなく湧き出る清水は南池の水源となり、掘り方の巧妙と水質の優秀なことは早くから世に知られています。園内は樹木が多く、 案内図で花菖蒲田の左方向には、 ツツジの植えられているつつじ山もあります。












日付:2007年5月1日
場所:
【第64回東京ぶらり日記:殿ヶ谷戸庭園】 ここは、大正2年〜4年に江口定條(後の満鉄副総裁)の別荘として整備され、昭和4年には三菱財閥の岩崎家の別邸となりました。昭和40年代の開発計画に対し本庭園を守る住民運動が発端となり、昭和49年に都が買収し、整備後、有料庭園として開園しました。
 なお、庭園の名称は、昔この地が国分寺村殿ヶ谷戸という地名であったことに由来します。 武蔵野の自然の地形、すなわち段丘の崖にできた谷を巧みに利用した「回遊式林泉庭園」。崖の上の明るい芝生地と崖下の湧水池、樹林で雰囲気が一変する造園手法がみどころのひとつです。殿ヶ谷戸庭園は、文化財保護法(第2条)により芸術上又は観賞上価値の高い日本庭園として、都指定名勝に指定されており、将来の文化向上発展の基礎をなすものであるため、その保存が適切に行われるように、周到の注意をもって多くの方に静かに観賞していただいている施設ですので、ペット連れの入園はお断りしております。












日付:2007年4月1日
場所:
【第63回東京ぶらり日記:善福寺公園】 善福寺公園は、武蔵野三名池(西武池袋線「石神井公園」の三宝寺池と「井の頭公園」の井の頭池。)の一つとして数えられている善福寺池を中心にした公園です。公園は善福寺池だけで全体の約半分を占めています。この公園から湧き出した水は、公園の南にある美濃山橋を起点として善福寺川となり、中野区との境あたりで神田川に合流します。江戸時代には神田上水の補助水源として活躍したそうです。善福寺池は、早稲田道りの渡戸橋の下を川となって繋がっています。二つの池は早稲田通りで“上の池”と“下の池”に分かれ、それぞれ特徴のある風情を持っています。善福寺池の南側に位置する“下の池”は、葦やアカメ柳の木が生い茂り武蔵野の池の風情を色濃く残し、“上の池”は、貸しボート乗り場がありボート遊びが出来るようになっています。 この公園は、JR荻窪駅、西武新宿線上石神井駅から「バスを利用して来る方法」と「駅から歩くには少し半端な距離」、「駐車場が公園の近くに無い」等アクセスが悪い条件により、さほど多くの人が訪れないためか程よく自然が残り、池には“かわせみ”が現れます。












日付:2007年3月1日
場所:
【第62回東京ぶらり日記:青梅市梅の公園】 『東京の奥座敷』と呼ばれる秩父多摩甲斐国立公園の玄関口にあたり、JR青梅線日向和田駅から二俣尾駅までの多摩川南側に、東西4キロメートルに広がる地域が吉野梅郷です。青梅市梅の公園をはじめ地元農家の各梅園や吉川英治記念館などが点在し、老木、若木合わせて2万5千本の梅が紅白の花をつけ、ほのかな香りをあたり一面にただよわせる関東一の梅の里です。見頃は、例年3月中旬ごろとなっておりますので、散歩がてら春の訪れを感じながら、散策してみてはいかがでしょうか。梅の公園は、吉野梅郷(よしのばいごう)の中にあり、120品種、1,500本の梅がある山の斜面を利用した自然公園です。市が昭和47年に整備し、現在では吉野梅郷を訪れた人は必ず立ち寄る「吉野梅郷のシンボル」そして「観光の中心スポット」になっています。梅の里を愛した文豪を偲ぶ吉川英治記念館 青梅市の名誉市民である文豪・吉川英治。「新平家物語」は昭和25年から、この青梅の里で随筆されました。かつて、庄屋屋敷だった彼の旧邸、草思堂の一角に建てられた記念館には、吉川文学を彩った数々の原稿や著作、書簡などが展示されています。また、使用された書斎もそのまま保存されています。記念館のすぐ近くの愛宕神社は、桜そしてツツジの群落へと、花の絶えない公園、頂上には畠山重忠と祀る小さな社があります。












日付:2007年2月1日
場所:
【第61回東京ぶらり日記:葛飾柴又帝釈天】 葛飾柴又のご案内をします。柴又といえば、映画「男はつらいよ」の寅さんの故郷として、ご存じの方もいらっしゃいましょう。はじめに、京成柴又駅から柴又帝釈天まで続く門前町をご案内します。 柴又帝釈天(題経寺)は、東京の東部、千葉県との境を流れる江戸川の傍らに、いまから300年程前の寛永年間に開創されたと伝わります。日蓮宗、経栄山と号し、千葉県中山法華経寺の門末。 帝釈堂拝殿を始めとする建築物の内外や渡り廊下を飾るたくさんの木彫群、そして瑞龍の松や日本庭園など、見どころの多い寺です。門前町は、題経寺まで、約200mほど続きます。 見所はたくさんありますが、何といっても人気が高いのは、古き時代の面影を感じさせる参道ではないでしょうか。柴又駅前には、車寅次郎の像が建ち、参道脇には、映画監督 山田洋次氏の自筆で「私生れも育ちも葛飾柴又です」と記された碑があります。遠く外国からの客人にも人気が高く、帝釈天への参道は賑やかな活気に溢れています。
参道は、団子屋をはじめ、飴屋、漬け物屋、土産物屋や江戸民芸品店、料理屋など、数多の店がびっしりと軒を連ね、帝釈天までの歩みが留まることもしばしば。茶屋(団子屋)で一串買った草だんごを食べながら、店を覗いてぶらぶら歩くのも良いものです。この参道が楽しみで帝釈天にいらっしゃる方々も多いようです。 庚申の縁日には露店も出て、参道は文字どおり人の波。これだけの賑やかさと雰囲気、柴又っ子の気持ちよさに肩を並べる門前町は、日本広しといえども、そうめったにあるものではございません。旅するフーテンの寅さんが帰ってくる場所は、故郷のここ葛飾・柴又なのでありました。










日付:2007年1月1日
場所:
【第60回東京ぶらり日記:ウィンター ビスタ イルミネーション】 Winter Vista Illumination(ウィンター ビスタ イルミネーション)とは…    毎年15万人もの来園者を魅了する、公園の冬の風物詩。
きらめくイルミネーションと国営昭和記念公園でしか見ることの出来ないシャンパングラスツリー、また澄みきった冬の夜空に上がる優美な花火が、幻想的な世界を演出します。WELCOMゲート ・ ここから Winter Vista Illumination の物語が始まります。 さあ、Winter Vista Illumination への入口です。まずはこの場所で写真撮影。きらめく光りをバックに、大切な人と、思いでの一コマを残してみませんか。 ◆詳しくは【国立昭和記念公園】http://www.showakinenpark.go.jp/ をご覧下さい。












日付:2006年12月1日
場所:
【第59回東京ぶらり日記:上野の山 文化ゾーン 秋の芸術散歩】 東京には他の道府県に比べ、国立、都立、区立、市立、私立の美術館はじめとする芸術のミュージアムが多数あります。特に上野公園とその周辺はわが国を代表する芸術のエリアとして文化社会発展の一翼を担っております。ここは交通の便も非常に良く、しかも世界有数の芸術の多くを一箇所で身近に触れることができる文化ゾーンです。今話題の「ダリ回顧展」や「大エルミタージュ美術館展」「ベルギー王立美術館展」「ミイラと古代エジプト展」などが目白押しで開催されています。詳細はそれぞれのホームページで確認されるのがよろしいでしょう。
●上野の森美術館
(http://www.ueno-mori.org)
●東京都美術館
(http://www.tobikan.jp/)
●国立西洋美術館
(http://www.nmwa.go.jp/index-j.html)
●国立科学博物館
(http://www.kahaku.go.jp/)
●東京国立博物館
(http://www.tnm.jp/)
●東京文化会館
(http://www.t-bunka.jp/)
●日本芸術院会館
(http://www.geijutuin.go.jp)
●黒田記念館(東京文化財研究所)
(http://www.tobunken.go.jp
/kuroda/)
●台東アートギャラリー
(http://www.city.taito.tokyo.jp
/index/000024/021838.html)
●区立朝倉彫塑館
(http://www.taitocity.net/taito
/asakura/)
●区立書道博物館
(http://www.taitocity.net/taito
/shodou/)
●区立下町風俗資料館
(http://www.taitocity.net/taito
/shitamachi/)
●東京藝術大学大学美術館
(http://www.geidai.ac.jp
/museum/)
●東京藝術大学奏楽堂
(http://www.geidai.ac.jp
/facilities/sogakudou/index.html)
●都立上野動物園
(http://www.kensetsu.metro.
tokyo.jp/zoo/ueno/)












日付:2006年11月1日
場所:
【第58回東京ぶらり日記:都心のオアシス日比谷公園】 日比谷公園は、幕末までは松平肥前守、長州藩毛利家などの屋敷地でしたが、明治4〜28年まで陸軍近衛師団錬兵場になっていました。その後、本多静六によって「都市の公園」として計画、設計、造成され、明治36年日本初の16万u以上の敷地の「ドイツ式洋風近代公園」として開園しました。全体設計は、ドイツの公園を模範としていますが、細部には日本的要素が加えられ、和洋折衷でゾーン別に多様な要素が取り入れられています。また大正12年には、野外音楽堂、昭和4年には園内に日比谷公会堂が完成し、様々な催し物や集会が行われています。そのほか 図書館、テニスコート、レストランと施設が充実しています。 園内にある第一、第二花壇には一年中四季の花が咲いており、季節ごとにシャガ、バラ、アジサイ、ペチュニアなどが見頃を迎えます。 樹木数は中高木142種約3200本、その他138種が植えられています。周囲をオフィスに囲まれたこの公園は、四季・休日を問わず都心のオアシスとして親しまれている。












日付:2006年10月1日
場所:
【第57回東京ぶらり日記:深川界隈】 この辺りは、富岡八幡、永代寺、深川不動の門前町として江戸情緒を色濃く残す深川の中心街です。富岡八幡では、相撲興行が行われ、伊能忠敬、平賀源内、紀伊国屋文左衛門などの有名人が住む町でした。『富岡八幡宮』は寛永4年(1627年)、菅原道真の末裔といわれる僧長盛により創建され、深川の開発の端緒として人々に崇められ愛されてきました。ここには、江戸勧進相撲発祥地として、初代赤石志賀之助から現代までの横綱の名が刻まれている横綱力士碑や超五十連勝力士碑、大関力士碑などが立っています。また、近代日本地図の始祖である伊能忠敬は、出発の都度必ず富岡八幡宮に参詣して測量開始地点に向かって歩き出たといわれ、伊納測量開始200年にあたり銅像が建立されました。富岡八幡宮には元禄時代に豪商として名を馳せた紀伊国屋文左衛門が奉納したとされる総金張りの宮神輿が3基ありましたが、関東大震災で惜しくも焼失。それから68年後の平成3年に日本―の黄金大神輿が奉納され宮神輿が復活しました。例祭は8月15日を中心に行われます。俗に「深川八幡祭り」とも呼ばれ、赤坂の日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭とともに「江戸三大祭」の一つに数えられています。3年に1度、八幡宮の御鳳輦が渡御を行う年は本祭りと呼ばれ、大小あわせて120数基の町神輿が担がれ、その内大神輿ばかり54基が勢揃いして連合渡御する様は「深川八幡祭り」ならではのものです。 一方 『深川不動尊』は 元禄16年(1703年)に始まった成田新勝寺の出開帳が深川不動の起こりで、明治14年不動堂が完成しました。境内には「名優五代目尾上菊五郎の碑」「力石」などがあります。当不動堂は他の別院とは異なり、大本山御旅所として発足したため特別な寺格を有し、正式には「別院」とは称さず「飛地境内仏堂」と云われます。納め不動(12月28日)や毎月28日の縁日では参詣者で賑わい、多くの露店が並ぶなど盛況を呈しています。◆詳しくは【深川観光協会】http://www.fukagawa-kanko.com/ をご覧下さい。












日付:2006年9月1日
場所:
【第56回東京ぶらり日記:巾着田 秋の曼珠沙華(日本一の群生地)】 秋の曼珠沙華(彼岸花)群生地は辺り一面を真紅に染め、まるで赤い絨毯を敷き詰めたようです。 このあたりは約1200年ほど前に高句麗(こうくり)から渡って来た人々が住みつき、大陸文化を取り入れた高度な生活を営んでいた場所で、高麗の里と呼ばれている。当時、水田を作ることは大変な事業であったが、高句麗人は高麗川(こまがわ)が蛇行していることを巧みに利用し、川をせき止め、その内側に水を導いて水田とした。 近くの日和田山(ひわだやま)から眺めると、高麗川に囲こまれた水田が巾着のように見えるので、川原田(かわはらだ)と呼ばれるこの地は、昔から巾着田と呼ばれてきたという。 巾着田は広さが16.7haあり、高麗川に沿って長さ1.5kmの堤防が築かれ、総延長2kmの散策路がある。 昔は全て水田だったが、現在では一部を残して休耕田(きゅうこうでん)となっており、日本一の曼珠沙華の群生地として知られるようになってからは、コスモス畑のほか、ふれあい広場やグラウンド、牧場、駐車場などに利用されている。










日付:2006年8月1日
場所:
【第55回東京ぶらり日記:高円寺阿波踊り】 高円寺の阿波踊りは今年で第50回を迎えます。回を重ねるごとに立派な祭りとなり、参加される連の中には本場四国徳島の阿波踊りに参加するものもあり、町会での熱の入れようもままならぬようになりました。“阿波踊りを見たいが四国徳島は遠い”とおっしゃる方は是非とも一度高円寺の阿波踊りご覧下さい。雰囲気は十分楽しむことができます。開催日は今年から毎年8月の最終金、土、日開催に変更になり、今回は8月26日(土)と 27日(日)で開演 18:00 終演 21:00 です。・・・詳しくはこちらにてご覧ください  http://www.koenji-awaodori.com/












日付:2006年7月1日
場所:
【第54回東京ぶらり日記:「浅草ほおずき市」四万六千日ほおずき市】 「浅草ほおずき市」は毎年7月9日、10日 浅草寺の境内で行われ、7月のお盆の仏壇に 飾る「ほおずき」を買う人々で大変賑わっています。昔からの文化に触れながら、売り買いの駆け引き も楽しめる散歩です。境内には約250の葦簾張(よしずば)りの出店が並び、ほうずきを買い求める参拝者で賑わいます。ほうづき市の日は 「四万六千日(しまんろくせんにち)」と呼ばれ、浅草寺の、功徳日です。この日にお参りすると四万六千日(一生)お参りしたと同じ、ご利益があるそうです。 ほうずきのお店は大きく分けると二種類あります。一つは鉢植えの一般的な物花が付いてる物、実はまだ青いです。もう一種類は赤い実になった鉢の無い物です。鉢物のお値段はカラフルな絵柄風鈴が付いて、2500円、交渉では値引きしてくれます、天候や売れ行きなどで、相場も変わるようです。持ち帰るのがちょっと大変ですが、宅配もしてくれます、有料ですが・・・ お店によって飾り方も色々です、鉢を吊り下げてる物、地面に置いてあるもの。売り子さんも下町の祭りスタイル、イキですね!!イキな声も下町の祭り気分を高めてくれます。何故この日がほうずきなのかは、わかりませんが、昔この季節のお土産だったようです。ほうずきの種を取るのって難しいですよね。










日付:2006年6月1日
場所:
【第53回東京ぶらり日記:名主の滝公園】 名主の滝公園は、 嘉永年間 (1848〜1854 )王子村の名主畑野孫八が自邸に開いた江戸情緒豊かな庭園で、台地の斜面を巧みに利用し自然の風景を取り入れており、古来王子の七滝の一つとして著名で、都内でも数少ない景勝地です。園内は、 地下水を利用した四つの滝が流れ落ち清涼感j満点で、 中でも男滝の流れ落ちる景観は見事です。 →名主の滝への道 巣鴨絵図(1854)名主の滝は江戸時代に描かれた資料には今のところ見当たらないが、切絵図、巣鴨絵図の中に「この末1丁行けば名主(毛?)の滝あり」と記入されている(絵図の左側矢印のところ)。王子の茶屋が多いところ、現在のJR王子駅近辺から王子稲荷社の前を通って行く道である。現在の名主の滝への道公園入口(一番北にある入口)女滝道案内板湧玉の滝男滝三平坂名主の滝江戸時代は庶民の避暑地、景勝地として親しまれた王子七滝の名残である。現在は自然の湧水は消滅し、ポンプで揚水した人口の滝が園内に四つあるのみだが、緑が多く寂々としてなかなかに涼味がある。名水巡礼八十八ヵ所三平坂名主の滝公園の北端に沿って台地へ登る曲がりくねった坂道である。坂名の由来は江戸時代の絵図にある三平村の名からとも、室町時代の古文書にある十条郷の住人三平の名からともいわれている。農家の人が水田へ下る道路であったが、名主の滝への道としても利用されたようである。












日付:2006年5月1日
場所:
【第52回東京ぶらり日記:根津神社−つつじ祭り】 文京区の根津神社は徳川幕府の五代将軍綱吉が1706年に建立し、権現造りの社殿、唐門、楼門、透塀など7棟の建物は、江戸時代の代表的な建築として国の重要文化財に指定されている。六代将軍家宣が祭礼を定め3基の神輿を奉納し1714年から天下祭と呼ばれる壮大な祭礼を行い山王祭、神田祭とともに江戸三大祭といわれていた。
根津神社はつつじの名所として知られており、境内にある約2,000坪の<つつじ苑>には約50種3,000株が植えられている。毎年恒例の「つつじ祭り」は4月上旬から5月中旬に行われる。斜面に植えられたつつじは、日当たりの関係や種類によって、全体がいっせいに咲きそろうことはなく、長期間にわたって早咲きから遅咲きの花が楽しめる。
「つつじ祭り」の期間は境内に露天・屋台が軒を並べ、土日祭日には野点・筝曲など各種行事が行なわれる。普段は閑散としているそうだが、この日は神社の境内はもちろん、千代田線根津駅あたりから谷根千散策客で道が賑わっている。手に散策地図を持っている人が多い。ゴールデンウィーク中では さらに、不忍池から上野公園まで賑わいは続いている。 是非、一度訪れてみて下さい。








日付:2006年4月1日
場所:
【第51回東京ぶらり日記:浮間公園】 北区の北西部にあって、荒川の恵みを受けた公園です。 浮間船渡駅のすぐ目の前にあります。 桜の季節には「舟渡さくら祭り」が開催され、多くの人が訪れます。広い公園内では、ヘラブナ釣りを楽しむ人、スポ−ツを楽しむ人などさまざまな楽しみ方をしています。園内にはサクラソウの圃場(ほじょう)があるほか、水生植物園もあります。 公園内には、大きな風車が立っています。












日付:2006年3月1日
場所:
【第50回東京ぶらり日記:小石川後楽園・梅林】 小石川後楽園は四季を通じて花と風情が観賞できる名園の中の名園です。今回は梅林をご紹介いたします。水戸光圀公ゆかりの小石川後楽園には約110本の紅梅・白梅の梅林があり、今年も梅まつりを開催しております。開花が大幅に遅れたため「梅まつり」は当初予定した期間より1週間延長されました。まだご来園されていない方は是非一度この機会にお越し下さい。見頃はまもなくです!!
 水戸偕楽園の梅林の原木は、ここ小石川後楽園の梅林から移されたと言われています。












日付:2006年2月1日
場所:
【第49回東京ぶらり日記:上野東照宮ぼたん苑(冬ぼたん)】 上野東照宮ぼたん苑は、昭和55年(1980年)に日中友好を記念として開苑しました。回遊式の日本庭園では、日本のぼたんと中国政府から友好記念として贈呈された希少な中国のぼたんを合わせて290品種・3,800本が見事な花を咲かせます。
また50品種・2,000本の芍薬や季節の花も見られます。都心にいることを忘れさせる緑と史跡に囲まれ、彩り豊かなぼたんをご観賞下さい。
ぼたん(牡丹)は中国が原産。キンポウゲ科のシャクヤク属に属する落葉潅木。奈良時代に薬用植物として渡来しましたが、その後、観賞用として品種改良が盛んに行われています。夏の高温多湿を嫌い、日当りが良い場所で、排水、通気性の良い土壌を好みます。極端な砂質か強い粘土質でない限り、たいていの土質で良く育ちます。変化に富んだ豪華な花を咲かせ、富貴、繁栄を表す縁起の良い「富貴花」、「百花の王」と呼ばれています。
【冬ぼたん】
東京で冬ぼたんを一般公開しているのは当苑だけです。40品種・600本が寒さ除けのワラ囲いの中で可憐に咲きます。
樹勢が弱く栽培が難しいため、着花率は2割程度と低く、一般家庭での開花は殆ど望めません。 春のぼたんより花は小振りですが、その希少性等から、古来より新春を祝う「寿華」として珍重されています。
△栗皮紅: 紫紅色、八重咲き
△七 福: 淡紅色、抱え咲き
△日 昇: 濃い紅色、八重咲き
△寒 紫: 紫色、半抱え咲き
△雪 衣: 淡紅色、八重咲き
△雪 重: 白色、千重咲き
△寒紫錦: 紫色に白い絞り
“春ぼたん” については、時期をあらためて紹介いたします。
◆開苑期間 : 1月1日〜2月末日(期間中無休) ◆開苑時間 : 午前9時30分〜午後4時30分(入園締切り)










日付:2006年1月1日
場所:
【第48回東京ぶらり日記:清澄庭園】 紀伊国屋文左衛門の屋敷跡とも伝えられている明治の回遊式林泉庭園。都内下町と言われる場所にこの静かな日本庭園は手入れも行き届きホットさせてくれる場所です。  泉水、築山、枯山水を主体にした「回遊式築山山水庭園」です。この造園手法は、江戸時代の大名庭園に用いられたものですが、明治時代の造園にも受けつがれ、清澄庭園によって近代的な完成をみたといわれています。 この地の一部は江戸の豪商・紀伊国屋文左衛門の屋敷跡と言い伝えられています。享保年間(1716〜1736年)には、下総国関宿の城主・久世大和守の下屋敷となり、その頃にある程度庭園が形づくられたようです。 明治11年、岩崎弥太郎が、荒廃していたこの邸地を買い取り、社員の慰安や貴賓を招待する場所として庭園造成を計画、明治13年に「深川親睦園」として一応の竣工をみました。弥太郎の亡きあとも造園工事は進められ、隅田川の水を引いた大泉水を造り、周囲には全国から取り寄せた名石を配して、明治の庭園を代表する「回遊式林泉庭園」が完成しました。 清澄庭園は、関東大震災で大きな被害を受けましたが、この時図らずも災害時の避難場所としての役割を果たし、多数の人命を救いました。岩崎家では、こうした庭園の持つ防災機能を重視し、翌大正13年破損の少なかった東側半分を公園用地として東京市に寄付し、市ではこれを整備して昭和7年7月に公開しました。 また、昭和52年には、庭園の西側に隣接する敷地を開放公園として追加開園しました。ここには芝生広場、池と流れなどがあります。また、サクラの木が20本ほど植えられ、春のお花見の場となっています。なお、庭園の方は、昭和54年3月31日に東京都の名勝に指定されています。










日付:2005年12月1日
場所:
【第47回東京ぶらり日記:小石川後楽園の紅葉】 東京でもみじの紅葉が非常に美しい庭園は先に紹介した「六義園」「殿ヶ谷戸庭園」とこの「小石川後楽園」です。特に「六義園」とは春に「枝垂桜の名園」として都内一位二位を競い、秋は「もみじの紅葉」で競い合っている名園です。今回は秋の「小石川後楽園」を満喫できるよう紹介させていただきます。








日付:2005年11月1日
場所:
【第46回東京ぶらり日記:国営昭和記念公園】 秋が深まると銀杏並木が恋しくなります。東京における銀杏並木は先に紹介した神宮外苑をはじめ幾つかありますが、銀杏のトンネルの下をのんびり歩ける公園は国営昭和記念公園がお勧めです。複数のポイントをもつここは、立川口カナール、昭島口周辺、バーベキューガーデン隣の銀杏並木、花木園です。特にこの銀杏並木ではカップルで、家族で、ペットと一緒に等、ゆったりと楽しめるエリアです。東京武蔵野の秋を澄んだ空気のもとでリフレッシュしてはいかがですか。ホームページは次のとおりです。 http://www.showapark.jp/ 足を運んで見てください。








日付:2005年10月1日
場所:
【第45回東京ぶらり日記:戸越公園】 戸越公園は江戸時代前期の寛文2年(1662年)、肥後の国熊本藩主細川越中守重利が下屋敷として、この付近の地と共に拝領し、寛文11年(1671年)当時の武家屋敷を代表する数寄屋造りと庭園からなる戸越屋敷として整備した庭園の一部である。江戸中期の天明4年(1784年)松平雲州公の屋敷となり、さらに松平隠岐守の手にと渡る。明治の変革により久松家などの手を経て、明治23年(1890年)三井家の所有となる。昭和7年(1932年)三井家が現在の戸越小学校の一部と共に別邸の庭園部を旧荏原町役場に寄付した。東京市域拡張の際、旧荏原区に引き継がれ、昭和9年東京市は公園の整備を行い、昭和10年3月(1935年)に完成し、東京市立戸越公園として開園した。その後、東京都に引き継がれ、昭和25年10月(1950年)に品川区に移管された区内でも由緒ある公園である。その後品川区では数次にわたる改修を重ね、歴史的な風情を復元させ武家屋敷の雰囲気をかもし出すよう、正門をはじめ施設の再整備を行い現在に至っている。












日付:2005年9月1日
場所:
【第44回東京ぶらり日記:野川公園】 この公園の前身は、国際基督教大学のゴルフ場です。調布、小金井、三鷹の三市にまたがり、野川と都道246号線(東八道路)とで三つの地区に分かれています。国分寺崖線に接し、豊かな自然が残されている野川の北側、野川と都道にはさまれた起伏のある芝生広場、そして広々とした芝生広場とテニスコート・ゲートボール場・アスレチックのある南側。緑にひたり、のびのびした気分を味わうことができます。 魅力はなんと言っても水と豊富な自然に囲まれた北側でカワセミも飛来する場所です。「野川公園」の名前が示す、”野川“が流れているのはこの北側。川幅は5〜10mほどで、ゆったりとカーブしつつ流れていきます。こちらの北側、「ここが東京?」と思わずつぶやいてしまいたくなるほど自然がいっぱい。草が鬱蒼と生い茂った川辺の景色を眺めながら遊歩道をのんびりお散歩をしていると、カルガモやサギなどの野鳥を間近に観察することができます。夏場は柳の緑が美しく、心身共にリフレッシュできること間違いありません。 またこの野川に沿って、その昔多摩川が武蔵野の台地を削ってできたと言われる河岸段丘「国分寺崖線」があり、崖下からは地下水が湧き出しています。ここには「自然観察園」があり、ここでは四季折々の野草や野鳥、昆虫などが見られます。 ”バードサンクチュアリ“ではかわいい野鳥を観察でき、”蛍の里“では、初夏(6月)には源氏ホタルも見ることができるらしい(チェック!!)。是非来年の夏はホタルを見にやってこよう! 隣接する自然観察センターでは観察園内で野草の観察会なども開催しているので、事前に確認して行ってみても楽しいのでは。 とにかく広くて自然がいっぱいの野川公園、一日中遊んで心地よい疲れとともに帰宅…。でもその前にちょっと足をのばしてみたいポイントが周りにたくさん。 一度で回りきれない人も、ぜひ、二度、三度と足を運んでみてはいかがでしょうか。










日付:2005年8月1日
場所:
【第43回東京ぶらり日記:和田倉噴水公園】 和田倉噴水公園は東京おでかけスポットの一つ。皇居外苑の北端に位置する噴水公園で、シンボル的存在ともいえるのが、高さ8.5Mに吹き上げる大噴水。夜には水中ライトで照らし出され、優雅で幻想的な光景を眺められる。
 和田倉地区にあるこの噴水公園は、継続性と新たな発展をテーマとしており、民間協力も得て、皇太子殿下のご成婚を機に平成7年に完成しました。今上天皇のご成婚を記念して昭和36年に完成した高さ8.5mに吹き上げる大噴水を再整備し、新しく造られた高さ5.5m、長さ30mの落水施設やモ二ュメン卜とを流水施設で結んでいます。
 噴水の運転に連動した水中照明も設備されており色々な噴水ショーが楽しめる。また、水はお濠の水を濾過した上で循環利用しているエコロジー設計となっている。
 レストランも併設されていて、噴水を眺めながら食事ができます。 噴水は夜8時で終了です。










日付:2005年7月1日
場所:
【第42回東京ぶらり日記:入谷朝顔市】 ■開催期間:毎年 7月6日〜7月8日 (三日間)  ■問い合わせ先  入谷鬼子母神  03-3841-1800
 入谷が朝顔で有名になったのは、明治になってからのことで、土質が朝顔造りに適してい たのか、十数件の植木屋が,一軒五六百坪の土地を有し、軒を連ねて朝顔造りを始めました。その頃の主な植木屋には,丸新・入又・入十、植松・入久・松本、入長・高野植惣・新亀等があリ、年々大輪朝顔の外、変り種を作り、珍花を咲せ、それを陳列したのが評判になり早晩より見物人が群集し、束都年中行事の一つに数えられるようにななりました。当時の模様を下谷繁昌記〈大正三年明治教育社発行〉を観ると「入谷の朝顔の全盛を極めたりしは、明治二十四五年頃にして、其の頃は、朝顔を造る植木屋十数軒を数え、入谷の通りは、毎朝、往来止めとなる程なりし也。殊に、当時は周囲一面の蓮田を廻らしたれば、涼しき朝風に吹かれ乍ら、朝顔を見又蓮の花を見るを得たりしかば、観客頻る多く、非常の盛況を呈したり。」と記載されています。 これ程有名であった入谷の朝顔も、入谷が発展するに伴い、地価と作品のバランスを失い 廃業する植木屋が次々に現れ、遂に大正二年意地づくで踏留っておった植松の廃業を最後に、束京名物入谷の朝顔もその姿を消してしまいました。尚,植松さんの子孫が 現在も花関係で入谷にて盛業中であります。 それから三十五年経った、昭和二十三年、下谷観光連盟並びに地元有志の方々の努力はもとより,台東区の後援を得て,入谷に再び朝顔の市が立つようになり、今日では、早晩より深夜に至るまでの終日、往時を凌ぐ盛況を極めるようになりました。










日付:2005年6月1日
場所:
【第41回東京ぶらり日記:水元公園菖蒲園】 水元公園は小合溜に沿って造られた、都内で唯一水郷の景観をもった公園です。昭和50年まで、このあたりは都立江戸川水郷自然公園に指定されていました。小合溜から引いた大小の水路が園内を走り、水郷景観を作りだしています。園内にはポプラ並木やメタセコイアの森、ハンノキなど水辺に強い樹木が生育し、ハナショウブ、スイレン、コウホネといった水生植物を多く見ることができます。 また、水元公園ではメタセコイア林を始め、大きく豊かな自然に親しむことができます。「大自然塾」講座では、身近な公園の森と触れ合い、楽しく遊び学ぶことで、東京都全体の自然について考えるきっかけをつくり、森づくりを実践する人材を育てています。








日付:2005年5月1日
場所:
【第40回東京ぶらり日記:亀戸天神の藤まつり】 亀戸天神は、寛文2年(1662)道眞公の末裔、菅原大鳥居信祐公が九州の太宰府天満宮より勧請、地形をはじめ社殿や楼門、太鼓橋など境内の結構をすべて太宰府の社にならって造営したのを起源としています。爾来、亀戸宰府天満宮とも称され信仰厚く、また、朝野の信仰も厚く、行楽の名勝地としても喧伝され、江戸庶民信仰の本源として関東天神信仰の中枢を占めています。
 境内のお庭の藤は三百四十年前の神社創建当時から植えられたと伝えられています。歌川広重の『名所江戸百景』でも描かれ、今日まで多くの人たちに親しまれています。一般にフジといわれているのはノダフジのことで、マメ科の植物です。このノダフジのツルは右巻きですが、ヤマフジは左巻きをしているそうです。そしてフジにも早咲きの品種から遅咲きのものまであり、まだまだつぼみがたくさんありましたので、見頃はもう少し先まで続くでしょう。花の色が品種により微妙に異なり、新緑とのコントラストが特に美しい。








日付:2005年4月1日
場所:
【第39回東京ぶらり日記:小石川後楽園の枝垂桜】 昨年の4月にここ(小石川後楽園)の桜(ソメイヨシノ)を紹介しました。その時の解説に述べた枝垂桜を画像で紹介します。
「小石川後楽園」は、柳沢吉保の庭園「六義園」とともに「枝垂桜の名園」として都内一位二位を競っています。枝垂桜は入り口を入ってすぐ正面に立派な枝振りで見事に咲き誇ります。樹齢推定は60年で3月下旬が見頃です。この枝垂桜から大泉水に沿って桜の大木が並び、池に映る桜の姿は素晴らしい。一方、正面のこの枝垂桜から左に大きく曲がって渡月橋に向かって歩くと、新たに枝垂桜の大木が数本並んでおり、枝垂桜の「のれん」を手で開けるように、素晴らしい情景が続きます。なを、庭園については、このコーナーで既に紹介済みですので、割愛させていただきます。








日付:2005年3月1日
場所:
【第38回東京ぶらり日記:池田山公園】 【歴史】この公園付近は、1670(寛文10)年に備前岡山藩池田家の下屋敷として下賜され、大崎屋敷と呼ばれていた。形式は地泉回遊式で、面積は 124,126m2(当時) である。ここは、武蔵野台地の先端にあたり、三田用水が引き込まれ、眺望に優れた場所であった。明治維新後、敷地は縮小されたが、昭和初期までは、池田家の邸宅となっていた。その後下屋敷の敷地は、ほとんどが宅地として分譲された。
【現在】
この公園は、本当に住宅地の真中にひっそりとある。無料の公園でありながら、開園時間が制限されているせいか、園内の管理が非常に行き届いている。そして、とても静かなので心が落ち着くといったような感じを受けた。庭園を見るために、わざわざ足を運ぶというような大きなものではないが、付近に安らぎをあたえている。








日付:2005年2月1日
場所:
【第37回東京ぶらり日記:東京都庭園美術館】 東京都庭園美術館は朝香宮邸(朝香宮殿下は久邇宮家第8王子、妃殿下は明治天皇第8皇女)として昭和8年 (1933年)に建てられた建物を、そのまま美術館として公開したものです。戦後の一時期、外務大臣・首相公邸、国の迎賓館などとして使われてきましたが、建設から半世紀後の昭和58年(1983年)10月 1日、美術館として新しく生まれかわりました。
 この建物は1920年代から1930年代にかけてヨーロッパの装飾美術を席巻したアール・デコ様式を 現在に伝えるものです。フランス人デザイナーが、主要部分を設計、内部装飾もフランスをはじめとする 外国から輸入されたものが多用されています。また基本設計と内装の一部は宮内省内匠寮の建築家が担当 し、アール・デコ様式に日本独特の感性を付け加えています。 当館は従来の美術館とは異なり、建物自体が美術品といえます。そして、作品とその観賞空間との間に 交感が生まれるような、新しい美術鑑賞の在り方を提案しています。美術館は広大な緑溢れる庭園に囲まれ、自然と建物と美術作品があわせて楽しめる環境に恵まれ、そこに庭園美術館の名も由来しています。












日付:2005年1月1日
場所:
【第36回東京ぶらり日記:新江戸川公園】 細川家下屋敷の庭園の跡地をそのまま公園にした回遊式泉水庭園です。目白台台地が神田川に落ち込む斜面地を活かし、変化に富んだ景観をつくり出しています。湧水を利用した流れは「鑓り水(やりみず)」の手法をとりいれて、岩場から芝生への細い流れとなり、その周辺に野草をあしらっています。池はこの庭園の中心として広がりのある景観をつくりだし、池をはさんで背後の台地を山に見立てています。その斜面地は深い木立となっていて、池に覆いかぶさるようにヤマモミジやハゼノキの一群が、秋には真っ赤に紅葉した姿を水面に映し出します。山に続く園路は深山の中の自然の尾根道のようです。所々に開けた空き地があり、ベンチが置かれています。もともとそこからは、木々の梢の間から池や低地の町並みを見渡せるようになっていましたが、木の生長とともに森の中にいるような雰囲気となりました。
<回遊式泉水庭園>
大きな池を中心として、その周囲の園路を歩きながら、様々な風景の移り変わりを観賞出来るように計画された庭園の様式の一つです。新江戸川公園では、門から入り大泉水への視界が展開されます。そして園路を進むにしたがって、池や背後の山並みの眺めの移り変わりを、また振り返った時、池を借景とした松声閣の眺めを楽しむことが出来ます。また樹林の中の山道をしばらく登った時、樹間から眺められる大泉水の眺めが印象的です。そして園路にそって池を一周し、最初に見た風景を振り返るように設計されています。
<松の雪吊り>
毎年11月下旬になると、池畔にある5本の松の枝を都会の水分を多く含んだ重い雪から守るため、わら縄で枝を吊る作業を行っています。張られた縄が、きれいな傘形になっていく様子は見応えがあります。 雪国などで行われる雪吊りは、機能を重視した手法(りんご吊り)であり、雪による枝折れを防ぐため目的の枝に縄を直接結びつけます。 これに対して、新江戸川公園をはじめ暖かい地方では支柱上の一点から放射状に下がる縄の描く傘型の美しさを鑑賞するために、枝の外周に沿って結びます。 外周に沿って結ぶ場合、外周を直線の組み合わせとするもの(江戸川区平成庭園など)と割竹でつくった輪の形にするもの(新江戸川公園)があります。 また、支柱上部の飾り(わらぽっち)は、省略されることもあるが新江戸川公園では、省略を行わずに取付けています。








日付:2004年12月1日
場所:
【第35回東京ぶらり日記:旧安田庭園】 【歴史】この庭は、1691(元禄4)年に下野国足利2万石の領主、本庄因幡守宗資が幕府から拝領して下屋敷を構えたことに始まる。隅田川の水を引いた潮入り回遊敷き庭園で、規模は小さかったが、江戸名園の一つに数えられていた。 明治維新後に一時、旧岡山藩主池田章政の邸地となり、1892(明治25)年安田財閥の創始者安田善次郎の所有となった。安田の死後、その意思によって1922(大正11)年東京市に寄付され、一般公開された。
【現在の庭園】 かつて江戸には、潮入りの庭園が、浜離宮恩賜庭園・旧芝離宮恩賜庭園・清澄庭園・旧安田庭園とあったわけだが、現在まで残っているのは浜離宮恩賜庭園のみとなっている。しかし、この庭園は潮入りの池の様子が楽しめるのである。墨田区は、地下に約750m2の貯水槽を作り、水槽を利用して池の水を浄化するとともに、人工的に干満を行い、潮入りを再現した。そのため、園内には飛び石や州浜などがたくさんあり、干満によって庭園の風景が変わるようになっている。








日付:2004年11月1日
場所:
【第34回東京ぶらり日記:有栖川宮記念公園】 ここは傾斜地で、池、川、滝のある自然豊かな南麻布にある公園です。敷地内には都立中央図書館があり、心と頭を豊かにしてくれます。
 有栖川宮親王は、戊辰戦争で幕末征討の総司令官となり、後に、西南の役や日清戦争にも従軍した皇族です。 家系が途絶えたため屋敷が返上され公園となりました。昭和9年1月5日高松宮宣仁親王より東京市に下賜され2月に工事が始まり、同年11月17日に開園式が行われた。その広さは10,988坪2合、総工費86,500円あまりで開園当初、敷地内に東京郷土資料仮陳列館も併設されていた。今は南麻布5丁目だがその頃、このあたりは盛岡町と言う町名であった。これは公園を含めたこのあたりが南部盛岡藩20万石の下屋敷があったため。盛岡藩はこの他、上屋敷を外桜田に中屋敷を鉄砲州、築地、愛宕下、三田寺町、木挽町、大崎等に、抱屋敷を大崎、上目黒に、蔵屋敷を芝田町、深川佐賀町に持っていた。上屋敷は江戸初期には幸橋にあり慶長17年(1612年)将軍秀忠も臨邸した。が正保5年(1648年)に上地し、従来中屋敷であった外桜田に移った。当初下屋敷も赤坂氷川神社付近にあり、屋敷に隣接した坂を”南部坂”と呼んだ。明暦2年(1656年)芸州浅野家の分家播州赤穂の浅野匠守麻布下屋敷と相対替(等価交換)することになり、浅野は赤坂へ、南部は麻布へと。約50年後の元禄15年(1702年)大石内蔵助は赤坂の南部坂で「南部坂雪の別れ」をするが、相対替がなければ麻布が舞台になっていた。この時南部家は麻布に移っているが、坂名だけは残っていた。










日付:2004年10月1日
場所:
【第33回東京ぶらり日記:都電荒川線】 【歴史】明治36年(1903年)8月東京電車鉄道(株)が品川―新橋間で営業を開始した。同年9月東京市街鉄道(株)が、そして翌年12月には、東京電気鉄道がそれぞれ営業を始めた。その後、この3社が明治39年9月に合併し東京鉄道(株)を創立した。明治44年8月に東京市がこの東京鉄道(株)を買収し東京市電気局を開庁し、軌道事業を開始した。これが都電(東京市電)の始まりである。なお、現在の荒川線の前身となる王子電気軌道(株)は、明治44年8月に飛鳥山−大塚間(大塚線)を開業している。飛鳥山下−三ノ輪橋間(三ノ輪線)は、大正14年11月に開業、早稲田までの全線開通は昭和5年のことである。大正時代に入ってからは、城東電気軌道(株)、西武軌道(株)等の民間企業が軌道事業に参入を果たした。昭和17年2月、陸上交通事業調整法により民営8社(王子電気軌道(株)を含む)の軌道とバス路線が統合された。昭和18年7月、東京都制施行により電気局を交通局と改称、市電から都電へ…。昭和34年には軌道敷内への自動車の乗り入れが実施される事となり、都電廃止への道を歩み始めるのである。そして昭和42年12月、遂に都電の撤去が開始される事となった。都電の撤去は42年12月から47年11月にわたって行われ、27系統(王子−赤羽間は除く)と32系統を残し都電の撤去が終了した。昭和49年10月1日、27系統と32系統を1本化し、荒川線と改称した。
【都電荒川線へのアクセス】都電荒川線へのアクセスは町屋、王子、大塚、東池袋4丁目が大変便利です。町屋では京成線と千代田線、王子では京浜東北線と南北線、大塚では山手線、東池袋4丁目では有楽町線にそれぞれ接続しています。新庚申塚(三田線の西巣鴨)と三ノ輪橋(日比谷線の三ノ輪)は乗り場が少し離れている為、注意が必要です。なお、早稲田での東西線乗り換えは距離が離れている為、初めての方は不可能と思って下さい。










日付:2004年9月1日
場所:
【第32回東京ぶらり日記:甘泉園公園】 甘泉園公園は、もともとは、徳川御三卿(徳川御三家を補佐する役目。)の清水家の下屋敷であった。そのため、日本式庭園が残っているという、新宿区立の公園です。この公園では、江戸時代当時の大名達が、国元や出張先の江戸屋敷によく造られ流行った、池や中島、磯渡り、築山を配した、回遊式庭園(別名、大名庭園とも言われる。)回遊式庭園を見ることが出来ます。甘泉園の日本式庭園は、高田馬場から、神田川に向かう、傾斜地を上手く利用して造られ、山吹の井と呼ばれる、ひょうたん型の池が配置されている。現在、この甘泉園公園は、広さが、約14,000uもあるが、当時の下屋敷の面積は、公園の南側に隣接する、「水稲荷神社」や、この公園の近くにある「公務員住宅」を含んでおり、もっと大きな面積があり庭園の規模もさることながら、合わせて、当時の大名屋敷の敷地の広大さに驚きを感じます。清水家の屋敷で有ったこの甘泉園公園の土地は、大政奉還の後、明治時代には、相馬候爵邸となり、そののち、昭和初期は、早稲田大学が譲り受け、昭和36年に、経済学部増築にあたり旧水稲荷神社境内と土地交換をし、同神社が庭園の一部に移転し、東京都に売却された。都立公園となった甘泉園公園は、その後、昭和44年に新宿区に移管された。現在に至っております。
甘泉園の名前の由来は、庭園の中央から湧き出している湧き水があり、その湧き水が、お茶を入れるのに適していたからと言うことであります。そのため、湧き口には、文化8年建立の「甘泉銘並序」石碑があった。また、甘泉園公園では、毎年、冬になると、兼六園のように、の樹木に雪吊りが施され季節感を味わえると共に、訪れる時期によっては、石榴の花が見られたり、つつじの花が見られたり、四季を通じて楽しめる公園です。










日付:2004年8月1日
場所:
【第31回東京ぶらり日記:国営昭和記念公園】太陽の動きにつれて花が回ると信じられていたのでヒマワリの名がつきました。サンフラワー(英名)、ヘリアンサス(学名)は太陽の花の意味。向日葵も太陽に向くという意味ですが、実際には花首のやわらかい、つぼみのときだけ太陽に向きます。ギリシャ神話では、「水の精クリチェが、太陽の神アポロンにかなわぬ恋をし、土の上に立ってアポロン(太陽)を見つめていたら、ついに9日目にヒマワリになってしまった。こうしてヒマワリはいまでもアポロンを見つめ続けている。」という悲恋物語があります。ヒマワリは、品種改良が盛んですが、昭和記念公園では、下記の園芸品種を見ることが出来ます。
●学名:Helianthus annuus
●分類:キク科ヘリアンサス属
●原産地:北アメリカ
●別名:日車(ひぐるま)、天竺葵(てんじくあおい)、日輪草(にりんそう)、向日葵
●英名:コモンサンフラワー
●花言葉:あなたを見つめる、光輝、傲慢、あなたは素敵
<■太陽> 花径が約12cmで、中心が黒色が特徴。<■ゴーギャン>真黄色の八重咲き品種。<■モネ>レモンイエローの八重咲き種で、おいしそうな印象の花。<■セーラームーン>花びらがグリーンの涼しげな品種。<■プラドレッド >濃赤色の花びらが印象的。高さは120〜140cmくらい。<■サンリッチマンゴー>明るいオレンジ色の花弁。高さは130cm〜140cm <■ゴッホ>花径は20cmほどで、花びらがカールしているのが特徴的。<■ランドマーク>高さが3mにもなる品種。まさにランドマーク。








日付:2004年7月1日
場所:
【第30回東京ぶらり日記:堀切菖蒲園】 堀切の花菖蒲(ハナショウブ)は江戸名所の一つとして古くから知られており、その景観は安藤広重や歌川豊国らの錦絵の題材にもなりました。
菖蒲園は文化年間(1804〜1817)当地の農民、伊左衛門によって栽培されたのが始まりと伝えられ、花の種類も約2百種6千株に及びます。
江戸時代の有様をしのびながら、数多くの江戸花菖蒲を鑑賞できるのが本園の特色の一つです。花の見頃は、6月中旬で、特に早朝や雨の日にしっとりとぬれた花菖蒲は情緒のあるものです。
また、園内には会食などのできる静観亭もあります。
ご利用案内
◎開園時間 :
午前9時〜午後4時30分
◎休園日
: 年末年始
※菖蒲まつり期間中(6月)は開園時間を延長しています。
◎料金 : 入園無料
 










日付:2004年6月1日
場所:
【第29回東京ぶらり日記:向島百花園】 江戸の町人文化が花開いた文化・文政期(1804〜1830年)に造られた庭園。庭を造ったのは、それまで骨とう商を営んでいた佐原鞠塢。交遊のあった江戸の文人墨客の協力を得て、旗本、多賀氏の元屋敷跡である向島の地に、花の咲く草花鑑賞を中心とした「民営の花園」を造り、開園しました。
 開園当初は、360本のウメが主体で、当時有名だった亀戸の清香庵字臥竜梅の梅屋敷に対して「新梅屋敷」と呼ばれたほどです。その後、例えば、宮城野ハギ、筑波のススキなど詩経、万葉集など中国、日本の古典に詠まれている有名な植物を集め、四季を通じて花が咲くようにしました。「百花園」の名称は、一説では、「梅は百花に魁けて咲く」または「四季百花の乱れ咲く園」という意味でつけられたものです。
 百花園は当時の一流文化人達の手で造られた、庶民的で、文人趣味豊かな庭として、小石川後楽園や六義園などの大名庭園とは異なった美しさをもっています。
 民営としての百花園の歴史は昭和13年まで続き、同年10月に最後の所有者の小倉未亡人から東京市に寄付され、翌14年7月に東京市が有料で制限公開を開始しました。なお、昭和53年10月に文化財保護法により国の名勝及び史跡の指定を受けました。
 








日付:2004年5月1日
場所:
【第28回東京ぶらり日記:国営昭和記念公園】 国営昭和記念公園は、昭和天皇陛下御在位五十年記念事業の一環として、国が設置した国営公園で、総面積は180haに及びます。現在、約8割の148haが一般に開園されています。
 本公園は、「緑の回復と人間性の向上」をテーマとして、豊かな緑につつまれた広い公共空間と文化的内容を備えた公園とすることを建設の目標としており、その規模・内容はわが国はもとより、国際的にも有数な公園となるものと期待されています。
★国営昭和記念公園4大行事
○スプリングフェスタ(実施中〜5/18):夜の桜まつり、チューリップまつり、ポピーまつり
○サマーフェスティバル(夏季):プール、花火大会、サギソウまつり、等
○コスモスまつり(秋季):コスモスまつり、伝統芸能を味わう会
○ウインタープレゼント(冬季):イルミネーションイベントなど

<無料開園日>
 毎年、国が提唱し、全国的に実施している「春の都市緑化推進運動」「秋の都市緑化月間」などの行事にあわせて、都市公園、都市緑化の円滑な推進を図り、広く国民の理解と協力を得るために、国営公園における無料開園を年5回実施します。
 また、本年度も立川まつりの一環として実施する「花火大会」(7/26)では、18:00以降の無 料開園を行う予定です。
 








日付:2004年4月1日
場所:
【第27回東京ぶらり日記:小石川後楽園の桜】 徳川水戸家の庭園「小石川後楽園」は、柳沢吉保の庭園「六義園」とともに「枝垂桜の名園」として都内一位二位を競っています。枝垂桜は入り口を入ってすぐ正面に立派な枝振りで見事に咲き誇ります。樹齢推定は60年で3月下旬が見頃です。この枝垂桜から大泉水に沿って桜の大木が並び、池に映る桜の姿は素晴らしい。一方、正面のこの枝垂桜から左に大きく曲がって渡月橋に向かって歩くと、新たに枝垂桜の大木が数本並んでおり、枝垂桜の「のれん」を手で開けるように、素晴らしい情景が続きます。四季を通じて紹介いたしますので、都心の名園をお楽しみください。なを、庭園については、このコーナーで既に紹介済みですので、割愛させていただきます。










日付:2004年3月1日
場所:
【第26回東京ぶらり日記:根津神社】
○御由緒: 根津神社は今から千九百年余の昔、日本武尊が千駄木の地に創祀したと伝えられる古社で、文明年間には太田道灌が社殿を奉建している。 江戸時代五代将軍徳川綱吉は世継が定まった際に現在の社殿を奉建、千駄木の旧社地より御遷座した。明治維新には、明治天皇御東幸にあたり勅使を遣わされ、国家安泰の御祈願を修められる等、古来御神威高い名社である。
○御祭神: 須佐之男命・大山咋命・誉田別命・大国主命・菅原道真公
○御社殿: 宝永二年五大将軍綱吉は兄綱重の子綱豊(六代家宣)を養嗣子に定めると、氏神根津神社にその屋敷地を献納、世に天下普請と言われる大造営を行なった。現在の権現造りの社殿・唐門・楼門・透塀等がこれで、昭和六年国宝(現重文)に指定されている。
○例祭(九月二十一日): 六代将軍家宣は幕制をもって当社の祭礼を定め、正徳四年江戸全町より山車を出し、俗に天下祭と呼ばれる壮大な祭礼を執行した。現存する大神輿三基は、この時家宣が奉納したものである。
同じ格式による山王祭、神田祭とあわせ江戸の三大祭と言われている。










日付:2004年2月1日
場所:
【第25回東京ぶらり日記:浜離宮恩賜公園】 潮入の池と二つの鴨場をもつ江戸時代の代表的な大名庭園。潮入の池とは、海水を導き潮の満ち干によって池の趣を変えるもので、海辺の庭園で通常用いられていた様式です。
 旧芝離宮恩賜庭園、清澄庭園、旧安田庭園なども昔は潮入の池でした。しかし現在、実際に海水が出入りしているのは、ここだけです。浜離宮は、この大名庭園を中心にした南庭と、明治時代以降に造られた北庭とに大別されます。
 この地は、寛永年間(1624〜1644年)までは、将軍家の鷹狩場で、一面の芦原でした。ここに初めて屋敷を建てたのは、四代将軍家綱の弟で甲府宰相の松平綱重。承応3年(1654年)、綱重は将軍からこの地を賜わり、海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てました。その後、綱重の子供の綱豊(家宣)が六代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家のものとなり、名称も浜御殿と改められました。
 以来、歴代将軍によって幾度かの造園、改修工事が行なわれ、十一代将軍家斉のときにほぼ現在の姿の庭園が完成しました。
 明治維新ののちは皇室の離宮となり、名前も浜離宮となりました。その後、関東大震災や戦災によって、御茶屋など数々の建造物や樹木が損傷し、往時の面影はなくなりましたが、昭和20年11月3日、東京都に下賜され、整備のうえ有料公開されるようになりました。なお、国の文化財保護法に基づき、昭和23年12月には国の名勝及び史跡に、同27年11月には周囲の水面を含め、国の特別名勝及び特別史跡に指定されました。










日付:2004年1月1日
場所:
【第24回東京ぶらり日記:高幡不動尊/新撰組の故郷】 真言宗智山派別格本山、高幡山明王院金剛寺は古来関東三不動の一つに挙げられ高幡不動尊として親しまれている。その草創は古文書によれば、大宝年間(701)以前とも或いは奈良時代行基菩薩の開基とも伝えられるが、今を去る1,100年前、平安時代初期に慈覚大師円仁が、清和天皇の削がん勅願によって当地を東関鎮護の霊場と定め、山中に不動堂を建立し、不動明王を御安置したのに始まる。のち建武二年(1335)八月四日夜の台風によってやんちゅうの堂宇(どうう)が倒壊したので。時の住僧儀海上人が康永元年(1342)麓に移し建てたのが現在の不動堂で関東稀に見る古文化財である。続いて建てられた仁王門ともども重要文化財に指定されている。足利時代の高幡不動尊は「汗かき不動」と呼ばれて鎌倉公方を始めとする戦国武将の尊崇をあつめ、江戸時代には関東十一檀林に数えられ、火防の不動尊として広く庶民の信仰をあつめた。
《新撰組の故郷 日野市》多摩は、新撰組の志士の多くを生み出した土地です。中でも日野市は、今でも多くの史跡が残る、まさに新撰組のふるさと。【高幡不動】●土方歳三の像:高幡不動尊にある銅像は有名な肖像写真に比べ、ややマッチョな歳三さん。平成7年に建立。ここはほかに明治21年建立の近藤・土方、両雄顕彰碑もある。【多摩モノレール線万願寺駅周辺】●土方歳三:生家(現在は新家屋)にある資料館。愛刀の和泉守兼定や、鉢金、鎖帷子などの遺品、資料など約30点以上を公開。関連図書も多く揃っている。庭先には歳三が植えた竹が今も残る。●石田寺:土方歳三の生家にほど近く、墓所と顕彰碑がある。いつも多くの人が参拝し、花が絶えない。【JR線日野駅/多摩モノレール線甲州街道駅周辺】●日野宿本陣跡・佐藤彦五郎邸:陣地内に、近藤勇、土方歳三、井上源三郎らが天然理心流の稽古に励んだ道場がある。●井上源三郎資料館:源三郎愛用の刀や、兄松五郎の日記などを公開。●宝泉寺:井上源三郎の墓と顕彰碑がある。●大昌寺:新撰組育ての親、佐藤彦五郎と妻のぶ(歳三の姉)の墓所。●八坂神社:佐藤道場の門下生、近藤勇、井上源三郎、沖田総司らが奉納した額が今も残っています。2004年1/10(土)〜10/31(日)に新撰組フェスタin日野が開催される。










日付:2003年12月1日
場所:
【第23回東京ぶらり日記:六義園(りくぎえん)の紅葉】 今年4月15日このコーナーで紹介した六義園、春の桜と秋の紅葉の両時期にライトアップすることでも有名です。約550本のモミジやハゼノキ・イチョウが色づく、都内随一の紅葉が楽めます。今年は「錦繍と光の舞 〜江戸の紅葉(もみじ)を見に行こう〜」が開催されました。 ●ライトアップされた、夜のモミジも格別です。●中の島のライトアップも幻想的です。●イベント期間中は染井門(駒込駅すぐ)もご利用いただけます。●ライトアップ期間中、平常開園時非公開の「心泉亭」にて、夜の庭園を眺めながらお抹茶がいただけます。(特製和菓子付き抹茶 500円)








日付:2003年11月1日
場所:
【第22回東京ぶらり日記:旧古河庭園】 旧古河庭園は、武蔵野台地の地形を巧みに利用した大正初期を代表する貴重な庭園です。 元々は明治元勲・陸奥宗光の宅地であったこの地を、銅山の成功で財を成した古河家が所有したことから、その名が付きました。旧帝国博物館や鹿鳴館を設計した英国人・ジョサイア・コンドル博士によるゴシック様式の洋館のほか、台地から傾斜地にかけては四季折々の花が咲き乱れる洋風庭園、低地には心字池を中心とした和風回遊式庭園があり、和洋の様式が巧みに調和した景観が見事な庭園です。 緑が多いこの場所では暫し都会の中での静寂が楽しめます。また、5月中旬〜6月下旬及び10月中旬〜11月下旬のバラ、4月中旬〜5月下旬のツツジ、11月下旬〜12月上旬の紅葉は特に見応えがあり、全国からも多くの見物客が訪れます。特に 数え切れないほどの種類のバラが植えられた洋風庭園と、紅葉に彩られる和風庭園を散策すると、しばし時間を忘れます。








日付:2003年10月1日
場所:
【第21回東京ぶらり日記:初秋のヒルトップ周辺】 初秋の昼下がり、御茶ノ水駅から水道橋駅方面へ少し歩き出すと、駅前の騒がしさを忘れるようなエリアがある。豊かな街路樹には、色付きはじめた木の葉に柔らかい陽光があたり、目を休ませてくれる。蔦に覆われた文化学院の壁には、静かな時の流れを感じる。その手前の出版健保を左に曲がった雑誌会館の前には“ギャラリーf分の1”がある。入り口は白壁のちょっと狭い階段で、そこを降りると白いキューブの部屋に入る。そこは心の中に1/f“ゆらぎ”を感じる空間だ。作品で感じたことを同じ空間にいる作者に直接 conversation するのも楽しみの一つだ。今後の予定は10/7-18 丸田記久子<生命あるものへの共感> 、10/21-11/1 井上リエ<1ぺいじの絵本>、・・・。
 黄昏時になるとワイングラスを傾けたくなるのも、このエリアの特徴だ。ゆったりとした大人の空間、大人の時間を楽しませてくれる“山の上ホテル(Hilltop Hotel)”は欠かせないスポット。多くの作家の方々や文化人に親しまれ、「文化人のホテル」と言われるこのホテルは、昔から文学と芸術に包まれた神田駿河台の history に欠かせない。[参考 http://www.yamanoue-hotel.co.jp/hs/story.html ]








日付:2003年9月1日
場所:
【第20回東京ぶらり日記:豪徳寺】 世田谷城趾の横に在るのが豪徳寺です。曹洞宗、たいけい山洞春院豪徳寺と号し、芝高輪泉岳寺の末、文明十二年、世田谷城主吉良政忠が、伯母の弘徳院殿久栄理椿大姉のため、弘徳庵という庵室を世田谷城内に建てた。開山は臨済宗の馬堂昌誉、天正十二年、門庵宗関のとき曹洞宗に改められた。
 天正18年、北条氏の滅亡に伴って、吉良氏が没落し、世田谷城も廃城となって弘徳院も衰微していた。
 寛永10年、彦根藩世田谷領が成立してから井伊家の江戸における菩提寺となり、殿舎堂閣の新設や修復がおこなわれ、藩主直孝が没してここに葬られると、その法号にちなんで、寺名を「豪徳寺」と改めました。
 寺の西側には、招き猫観音で有名な「招福庵」があります。豪徳寺が招き猫で有名なのは、正確にはこの「招福庵」の事です。伝説であるから経緯はいろいろありますが、一説には「この寺の和尚が飼っていた猫が、直孝を寺に招き寄せ、直孝がこの寺を菩提寺と定めてから、運気が上がったため、この猫は、観世音菩薩の化身だろうとして祀られたから」という説が一番有名です。
 そして、この寺には「桜田門外の変」で殺された、井伊直弼のお墓があります。








日付:2003年8月1日
場所:
【第19回東京ぶらり日記:小石川植物園】 東京大学大学院理学系研究科の附属植物園。赤ひげ先生で知られる小石川療養所のあった所。非常に多くの種類の草木が植えられている。六義園が人の手をかけて造られた造形の美しさとすれば、こちらは緑深い自然のやすらぎを感じさせてくれるとでもいおうか、騒々しい都心にいる事を忘れさせてくれる。園内には万有引力発見のヒントとなったりんごの木を接ぎ木した「ニュートンのリンゴの木」や、遺伝学の権威メンデルが実験に使ったぶどうの木から分けたもの、世界で初めてイチョウの木の精子を発見した木など、学術的に価値のあるものも数多い。木には名前を書いた札がついていて勉強になるが、そんなものがなくても、ひんやりと涼しい木陰を腐養土のじゅうたんを踏みしめながら歩くだけでも十分価値がある。思い思いの場所でシートを広げてお弁当を食べる人、スケッチをする人、メモ片手に草木の名前を書き取っている小学生の子供たち。みな思い思いの楽しみ方をしている。北西部にある日本庭園の奥に見える赤い洋館は旧東京医学校の建物です。










日付:2003年7月1日
場所:
【第18回東京ぶらり日記:北の丸公園】 北の丸公園は緑豊かな都会のオアシス。道を渡ると、旧江戸城の天守閣跡など、静かなスポットが点在し、子供連れでも安心して散策ができます。 元は江戸城北の丸で、御三卿の田安家(千鳥ヶ淵側)と清水家(清水堀側)の屋敷があり、明治以降近衛連隊や近衛師団司令部がありました。
 園内には国立近代美術館と別館の工芸館、国立公文書館、科学技術館、日本武道館があります。工芸館は近衛師団司令部跡を利用しており、国内外の工芸美術品を展示しています。 国立公文書館は貴重な外交書類をはじめ、各種の歴史的な公文書が保管されています。科学技術館は科学技術の展示だけでなく、多目的イベントホールとして利用されています。日本武道館は武術の中央大会会場というよりも、最近では大型コンサート会場として有名になりました。屋根のテッペンにのっている金色の部分には、ステージ機材の巻上げ装置が入っています。


i-Garden Air <Photo by H. Ogawa>






日付:2003年6月1日
場所:
【第17回東京ぶらり日記:i-Garden Air】
六本木ヒルズや新橋溜池地区と同様に跡地利用の再開発地区が飯田橋にもあり、先月オープン致しました。この地区は、JR飯田橋貨物駅と飯田橋紙流通センターの跡地に建てられた高層ビル群とテラスハウス、ホテルで構成されており、その前に建てられたJR貨物ビルを加えて、飯田橋における新ビジネス地区となりました。その中心的建物がアイ・ガーデン・テラスとガーデン・エア・タワーです。中には、洒落たレストランや各種クリニック、コンビニ、書店、コーヒーショップ、旅行代理店、プレゼンテーションホールや貸し会議室等があり、新たなビジネススポットとして、注目されています。








日付:2003年5月15日
場所:
【第16回東京ぶらり日記:江戸城(千代田城)その2】
 江戸城の内堀内は城址公園としての東御苑と皇居に分かれ、東御苑は宮内庁管理のもとに一般公開されている。城内の魅力は何と言っても徳川三百年の府城の石垣とお掘、城郭跡、美しい二の丸庭園、天守閣跡、番所、豊富な樹木と広くゆったりとした空間、歴史的な事件が発生した場所に立つなど、迫力とスケールの大きさ、歴史の躍動感を直接肌に触れるなど、感動と安らぎの場所となっています。東京に居られる時に一度は足を運びたい所です。 










日付:2003年5月1日
場所:
【第15回東京ぶらり日記:江戸城(千代田城)その1】 今年は江戸幕府の開府400年である。普通皆さんは、お堀の内側は皇居で入れないと思っている方が多い。ここは皇居である前に江戸城である。もちろんこの地の約半分が皇居として無断で立ち入ることはできないが、残りの約半分が城址公園として宮内庁が管理し公開している。そこで今月は2回にわたり江戸城の歴史と魅力について紹介いたします。今回はお堀の外側からの風貌を、次回は城内について紹介いたします。
 江戸の地に城が築かれたのは長禄元年(1457)のこと、扇谷上杉持朝の命で同家の執事太田道灌が築城しました。その後は道灌が城代をつとめますが、文明18年(1486)道灌は主家の上杉定正により誘殺されます。永正2年(1505)には上杉朝良が入城し、大永4年(1524)に北条氏綱により陥落するまで扇谷上杉氏の本拠となります。北条氏は遠山氏を城代として江戸城を守らせ、天正18年(1590)には遠山景政の弟川村秀重がありましたが、秀吉麾下の大軍に包囲され開城しました。
 同年8月関八州の太守となった徳川家康は江戸城を居城と定めて入城し、文禄元年(1592)からは拡張工事に着手しました。慶長8年(1603)家康は江戸に幕府を開き、江戸城は天下の府城となりました。その後三代家光の代まで普請を続け、寛永13年(1636)一応の完成を見ました。
 家光の代には五層の豪華な大天守がありましたが、明暦の大火(1657)でこの大天守をはじめ本丸・二の丸殿舎などが焼失、以降明治に至るまで13回の火災を経験しました。
 内堀の外側からの姿は、桜田門を挟んで右側の大手町方面と左側の三宅坂方面では大きく異なるが、ともに美しい景観をもち、周囲は公園として都心の安らぎの場となっている。








日付:2003年4月15日
場所:
【第14回東京ぶらり日記:六義園】
 元禄8年(1695)、5代将軍徳川綱吉が加賀邸を移して、柳沢吉保に与えた。7年余にわたる工事で元禄15年(1702)に完成した。千川上水を入れ、蓬莱島の石組みを施し、大芝生地に、築山にクマザサの大刈込みを用い、滝を落とすなど、吉保自らが中国の詩経大序にある六義になぞらえて作園、88境を数える。大和郡山藩柳沢家の下屋敷として明治維新を迎えた。庭園は明治になり岩崎弥太郎の別邸となり修復された。
内庭大門の広場には枝垂桜の大木が植えられており、開花の時期にはライトアップされ、その美しさは都内でも有数に数えられています。 秋には山陰橋辺りから紅葉と水辺の映り絶妙で、春とは対照的な美しさで眼を奪われます。庭園内の豊富な緑にはウグイス、メジロ等の野鳥が住んでいます。一歩園内に踏み込むと、ここが都会であることを忘れさせてくれます。








日付:2003年4月1日
場所:
【第13回東京ぶらり日記:千鳥が淵の桜】 千鳥が淵は、江戸城北の丸公園の田安門西側から戦没者墓苑の先までの掘を示し、都内桜の名所の一つである。桜の木々は、お堀の両側になだれ込むように枝を張り、この時期はお堀の緑の斜面と桜の対比が非常に美しく、お堀の水面に映る姿と合わせ、絶景である。中ほどまで行くと貸しボートがあり、昼下がり桜の花の下をボートでゆっくりとした時間を楽しむのも良いでしょう。またフェアモンドホテルのラウンジから桜を眺めながら、お茶するのも大人の時間を楽しむ一時となろう。






日付:2003年3月15日
場所:
【第12回東京ぶらり日記:護国寺】 創建は天和元年二月(一六八一年)、五代将軍徳川綱吉公が、その生母、桂昌院の発頓により、上野国(群馬県)碓氷八幡宮の別当、大聖護国寺の亮賢僧正を招き開山とし、幕府所属の高田薬園の地を賜い、堂宇を建立し、桂昌院念持仏の天然琥珀如意輪観世音菩薩像を本尊とし、号を神齢山悉地院護国寺と称し、寺領三百石を賜ったことに始まる。翌二年、堂宇は完成した。<中略>
 この護国寺は明治十六年、大正十五年と火災で堂宇の多くを失ったが、観音堂(本堂)は元禄以来の姿を変えず、また、近江三井寺より移築された月光殿(重文)は桃山期の建築美を今に伝えている。その他、薬師堂、大師堂、多宝塔、忠霊堂や創建当時のものと伝えられる仁王門、惣門。そして中門と多くの堂宇が保存、または再建されている。また、元禄文化の粋を集めた書画・什器の他、国宝、重要文化財等の数多くが寺宝とされている。震災、戦災と二度の大災害に襲われた東京の都心にありながら、江戸の面影を今に伝える当寺の姿は、訪れる人々の心のふれあいの場として、昔も今も変りなく親しまれている。もっと詳しく知りたい方は、http://www.gokokuji.or.jp/ へ。








日付:2003年3月1日
場所:
【第11回東京ぶらり日記:湯島聖堂(昌平坂学問所】 湯島聖堂(昌平坂学問所)は江戸時代の官立の教育機関の跡地です。様々な著名人を輩出した名実ともに当時の最高学府でした。
 元来は三代目将軍、家光に仕えた朱子学者、林羅山の私塾で、場所も現在の上野公園のあたりにありました。現在の場所に移ったのは、五代目将軍、綱吉の時代です。学問に熱心で、朱子学にも通じていた綱吉によって、現在の場所に移され、その規模を拡大しました。
けれども、この時点では、聖堂は林羅山の子孫である林家が、運営し、幕府の手厚い保護を受けながらも、完全な官営ではありませんでした。
その後、試験制度なども整えられ、幕臣の養成学校としての性格をますます強めていくこととなりました。そしてこの時から、湯島聖堂は林家の手を離れ、完全な官立校となりました。昌平坂学問所という名前になったのも、この時からです。
 学問所の中心には、大成殿があり、儒学の創始者である孔子が祀られています。中国ではどのように孔子が祀られているのか、残念ながら調べることが出来ませんでしたが、こちらでは、なんだか天神様と同じ様な扱いで、学問に御利益があるとされているようです。








日付:2003年2月15日
場所:
【第10回東京ぶらり日記:湯島の白梅】 「湯島の白梅」は同名映画化された昭和の恋の名曲である。(佐伯孝夫 作詞、清水保雄 作曲、湯島通れば 想い出す お蔦主税の 心意気 知るや白梅 玉垣に 残る二人の 影法師 ・・・)この湯島天神(湯島天満宮)は学問の神様であるとともに、梅園と可愛い恋みくじ(別に通常の御神籤もある)がある。境内には白梅を中心とした梅園があり、今年も2月8日〜3月9日の期間で梅まつり(文京花の五大まつりの一つ)が開催されている。 「湯島天満宮」は雄略天皇の勅命により、御宇二年(458)一月創建と伝えられ、天之手力雄命を奉斎したのがはじまりで、降って正平十年(1355)二月郷民が菅公の御偉徳を慕い、文道の大祖と崇め本社に勧請しあわせて奉祀し、文明三年(1478)十月に、太田道灌これを再建し、天正十八年(1595)徳川家康公が江戸城に入るに及び、特に当社を崇敬すること厚く、翌十九年十一月豊島郡湯島郷の内五石の朱印地を寄進し、もって祭祀の料にあて、泰平永き世が続き、文教大いに賑わうようにと菅公の遺風を仰ぎ奉ったのである。 その後、学者・文人の参拝もたえることなく続き、林道春・松永尺五・堀杏庵・僧堯恵・新井白石などの名が見える。将軍徳川綱吉公が湯島聖堂を昌平坂に移すにおよび、この地を久しく文教の中心としていよいよ湯島天満宮を崇敬したのである。








日付:2003年2月1日
場所:
【第9回東京ぶらり日記:浅草寺界隈】 金龍山浅草寺といい、一般には「浅草の観音様」の名で知られる都内最古の寺。聖観音宗の総本山で、坂東観音霊場の13番札所。縁起によると、推古天皇の36年(628)、檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)の兄弟が宮戸川(現隅田川下流)で漁をしていると、網に黄金像がかかった。これを郷司 土師直中知(はじのあたえなかとも)の私邸に小堂を建てて祀ったのが起こりで、この像が現在に伝わる本尊の秘仏だという。江戸時代には市中で最も人気のあった寺で、近くに芝居町の猿若町と遊郭の吉原をひかえて、一帯は大歓楽街を形成していた。今も雷門から一直線に仲見世・宝蔵門・本堂とつづき、伝法院・五重塔・二天門・淡島堂・鐘楼・浅草神社等を配する広大な境内を占めており、参拝・観光客の足が絶えない。うち鐘楼にかかる鐘は、松尾芭蕉の「花の雲鐘は上野か浅草か」の句で有名。江戸時代は朝・昼・夕の3回、鐘を撞いて市中に時を知らせていた。当時の時の鐘は、日本橋石町と新宿天龍寺にも現存している。また、当寺には、金龍の舞・ほおずき市・歳の市といった、賑やかな年中行事が多い。






日付:2003年1月15日
場所:
【第8回東京ぶらり日記:江戸東京博物館】
 今年は江戸開府400年に当たるとともに江戸東京博物館開館10周年記念に当たる。
江戸東京博物館は、失われつつある江戸東京の歴史遺産を守るとともに、未来の東京を考える博物館として、平成5年(1993年)3月28日に開館しました。
常設展示室には、豊富な実物資料や複製資料のほか、綿密な調査研究を踏まえて復元した大型模型などが展示されています。
江戸東京の都市の歴史と文化、そこに暮す人々の生活を楽しみながら学ぶことができます。
1月5日から2月23日の期間は企画展として 大江戸八百八町展 が開設されている。江戸時代の庶民文化が華やかに開花した文化期の江戸、しかもその中心地である日本橋付近を克明に描写した貴重な絵巻物がドイツから日本に里帰りしました。名付けて日本橋繁昌絵巻。なにしろこの12メートルに及ぶ絵巻には、看板に至るまで忠実に描き込まれた多数の店舗に加え1,690人もの人物が克明に描き込まれています(まるでヤマガタヒロシの絵を長編大作にしたようで、いくら覗き込んでも飽きが来ない。実感!今回の展示会は、この日本橋繁昌絵巻を中心としながら、「巨大都市江戸の賑わい」をいろいろな角度で取り上げられています。
詳しくはホームページ:江戸東京博物館( http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/ )をご覧ください。








日付:2003年1月3日
場所:
【第7回東京ぶらり日記:神田明神 初詣】 神田明神は今から約1270年前の天平2年(730年)、武蔵の国豊島郡芝崎、現在の千代田区大手町将門塚周辺に創建されました。それから約200年後、平将門公が俵藤太に討たれ、その首が京都で晒されましたが、これを奪い返して塚を築き、葬りました。さらに、延慶2年(1309年)には将門公の霊をも相殿に祀り、神田明神と名付けました。天正18年(1590年)徳川家康は江戸を幕政の地と定め大規模な城下の造成工事を開始しました。元和2年(1616年)には現在の場所に移り、江戸城の鬼門の守護神となりました。その後、桃山風の豪華な社殿が築かれ、歴代将軍の崇敬厚く、江戸総鎮守として江戸の庶民にも親しまれてきました。 詳しくはホームページ:神田明神( http://www.kandamyoujin.or.jp/ )をご覧ください。
銭形平次:1931年4月「オール読物」の創刊とともに誕生した時代劇小説。この銭形平次シリーズは、1957年まで26年間に渡り書き継がれ、長編21、中篇18、短編341、 掌編3の、合わせて383編にものぼる。原作者は野村胡堂、平次の住まいは、神田明神下(正しくは神田お台所町)の長屋。詳しくはホームページ:銭形平次の部屋( http://www.asahi-net.or.jp/~UY7K-YMST/heiji/heijihyousi.htm )をご覧ください。








日付:2002年12月15日
場所:
【第6回東京ぶらり日記:神楽坂】 
 神楽坂、そこは赤坂、新橋ととものに江戸のお座敷芸が東京に残ってきた街の一つです。伝統と江戸文化の風情を残しながら、東京理科大学が近くにあり学生の街としての若さが溢れています。商店街には呉服屋、草履などの和服小物屋があれば瀬戸物屋、なつかしいおもちゃ販売店、横丁に入れば割烹や小料理屋が並び三味線の音が流れてきます。師走に入り毘沙門天の周りでは歳末のざわめきざわめきを感じます。






日付:2002年12月1日
場所:
【第5回東京ぶらり日記:神宮外苑 銀杏並木】 都心の紅葉といえば東京都の木に指定されている銀杏です。この銀杏の名所が神宮外苑の銀杏並木です。澄んだ秋空の下で、銀杏の巨木が4列に天高く並んだ絵画館前の通りは金色のトンネルなり、家族連れやカップルの夢街道として季節の一時を満喫しております。脇のレストハウスのオープンテラスでは深いコーヒーの香りと明るい笑い声が流れています。






日付:2002年11月15日
場所:
【第4回東京ぶらり日記:靖国神社】  
 11月の声を聞くと都心でも落葉の季節となります。公園や庭園、神社や街路樹などが一斉に色付き始めました。ここ靖国神社境内でも 春の桜の下での賑わい、盛夏の御霊祭り、そして今秋深い静かな時の流れを感じます。








日付:2002年11月3日
場所:
【第3回東京ぶらり日記:小石川後楽園】  
 今日の飯田橋はJR総武線はもとより地下鉄東西線、有楽町線、南北線、大江戸線等5本の線が交わる文字通りの交通の要所となっている。これら駅から徒歩8分ほどで有名な徳川水戸家の庭園「小石川後楽園」がある。遊園地や遊技場の後楽園の地名はここの庭園から派生している。またこの庭園のすぐとなりは東京ドーム球場。1時間あればゆったり回れる広さ。一度は行ってほしい東京のオアシスの一つを紹介します。
 江戸時代初期、寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房が、その中屋敷として造ったもので二代藩主の光圀の代に完成した庭園です。庭園は池を中心にした「回遊式泉水庭園」になっており、随所に中国の名所の名前をつけた景観を配し、中国趣味豊なものになっています。
 後楽園の名は中国范仲淹(はんちゅうえん)「岳陽楼記(がくようろうき)」の「天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から名づけられました。
 なお、後楽園は国の文化財保護法によって特別史跡・特別名勝に指定されています。この二重指定を受けているのは、全国でも後楽園、浜離宮、金閣寺などです。(入園料 大人300円)






日付:2002年10月15日
場所:
【第2回東京ぶらり日記:神田本屋街】  10月半ばの声を聞くと、風も夏の暑さを忘れ、すがすがしい秋を肌で感じるようになる。秋と聞くと“芸術の秋”“食欲の秋”“読書の秋”と皆言い出すが、この三つを一箇所満たそうとするとなかなか無い。10月30日(水)から11月4日(月)まで神田神保町で“第43回古本まつり”が始まる。神保町の本屋街には文学書から音楽や美術などの芸術書、電気・建築・医学などの専門書、食通が喜ぶレシピの本など探せば必ず見つかる宝の街だ。一本入った“すずらん通り”には“美味しい店”や買った本を待ちきれずに“ゆったり読める喫茶店”があるのも“いい街”だ。古本まつりの期間中は、読みたかった本がびっくりする値で放出されるので、思わず何冊も脇に抱えてしまう。この“本の街 神田”にはホームページがあるので、じっくり覗き込んでから足を運ぼう。アドレスは http://www.book-kanda.or.jp/ だ。これこそブックマークに入れておこう。






日付:2002年10月2日
場所:
【第1回東京ぶらり日記:東京大神宮】 ISS産業科学システムズのホームページが一新されました。大きな特徴は、URLが2つになり、会社概要が http://www.issec.co.jp/ に、事業案内は ISSECブレインセンター http://www.ebrain-j.jp/ になりました。セミナー情報、通信教育情報、書籍情報、ソフトウェア情報等見やすく扱いやすくなりました。詳細については“おしらせ”をご覧ください。お気に入りのブックマークとしては ISSECブレインセンター http://www.ebrain-j.jp/ をご登録されるほうかよいでしょう。会社概要は contents からご覧いただけます。
 今ご覧なっていますこの“東京ぶらり日記”では、セミナー等の参加や出張で東京に来られた方に“ちょっと行ってみよう”という所の紹介や“東京歳時記のスポット”などを紹介していきます。よろしくお願いします。
第1回目は東京大神宮です。明治天皇により東京における伊勢神宮の遥拝殿として明治13年建立されました。ここは「縁結び」で有名です。女性週刊誌にもよく取り上げられ、恋みくじ や 金銀2本セットの破魔矢 など女性に大人気のグッズが多く、年中女性の参拝者が絶えません。ここは当社から徒歩約2分です。


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